概 要
徳川家臣。鳥居忠吉の三男。家康が今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、家康に従い各地の戦いに従軍し軍功を挙げる。
関ヶ原合戦の際には主君・家康の命で伏見城に籠城し、13日間の攻防戦の末、城兵とともに玉砕し、その忠節は「三河武士の鑑」と人々に称賛された。
ポイント
- 鳥居忠吉の三男。家康の人質時代からの忠臣
- 家康に従い各地の戦いで活躍する
- 伏見城の戦いで壮絶な討死を遂げ、「三河武士の鏡」と称される
誕生・死没
- 誕生:1539年
- 死没:1600年
- 享年:62歳
- 死因:戦死
- 墓所:百万遍知恩寺(京都市左京区)
- 長源寺(福島県いわき市)
同い年の武将
名 前
- 小平次(幼名)
- 彦右衛門尉(通称)
- 一智(号)
所 属
親 族
父 | : | 鳥居忠吉 |
母 | : | 不明 |
正室 | : | 松平家広の娘 |
側室 | : | 馬場信春の娘 |
兄弟 | : | 忠宗、本翁意伯、元忠 |
忠広、女(三宅政貞室) | ||
子 | : | 康忠、忠政、成次、忠勝 |
忠頼、忠昌、娘(土岐定政の正室) | ||
娘(戸沢政盛の正室) |
略 歴
1539年 | 0歳 | 鳥居忠吉の三男として誕生 |
1547年 | 8歳 | 兄・忠宗が戦死 |
1551年 | 14歳 | 家康の近侍となる |
1555年 | 17歳 | 元 服 |
1558年 | 20歳 | 寺部城の戦い |
1570年 | 32歳 | 姉川の戦い |
1572年 | 34歳 | 父・忠吉が死没 鳥居家の家督を継ぐ 三方ヶ原の戦い |
1575年 | 37歳 | 長篠の戦い |
1581年 | 43歳 | 高天神城の戦い |
1582年 | 44歳 | 天正壬午の乱 |
1585年 | 47歳 | 上田城の戦い |
1590年 | 52歳 | 小田原征伐 |
1600年 | 62歳 | 伏見城の戦いで戦死 |
鳥居家とは
出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄
鳥居家の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。
誕生と幼少期
松平家の家臣・鳥居忠吉の三男として誕生
1539年、元忠は松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として三河国碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれた。母は不明である。
父の忠吉は岡崎奉行などを務めた岡崎譜代の家臣であった。
家康の近侍として仕える
一説によると元忠は、家康が今川氏の人質だった頃(1551年)(元忠は13歳)から仕え初め、1555年に家康が元服し今川義元から偏諱を与えられて「松平元信」を名乗ると、3歳年上の元忠も同時に元服・偏諱(元の字)を受けたとされている。
その後も、人質としての家康を支え、1などで活躍した。
家康の家臣として活躍
旗本部隊の将として活躍
桶狭間の戦いの後、家康が独立し三河を統一すると、元忠は旗本先手役となり旗本部隊の将として1558年の「寺部城攻め」や「姉川の戦い」、「」
1572年には父が死去し、鳥居家の家督を継いだ。
※長兄の忠宗は1547年の「渡の戦い」で戦死し、次兄の本翁意伯は出家していたため
諏訪原城の戦い
1572年、武田家が徳川領である遠江国獲得のため遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)に諏訪原城を築城させた。
同年、三方ヶ原の戦いが勃発すると元忠は諏訪原城攻めを行った。しかし、この合戦で元忠は斥候として敵陣に潜入したところを、敵に発見されて銃撃で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残してしまった。
長篠の戦い
1575年5月、「長篠の戦い」においては石川数正とともに馬防柵の設置を担当する。続いて、1581年の高天神城の戦いに参戦した
姉川の戦い
の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。
天正壬午の乱
黒駒合戦
1582年、本能寺の変で信長が討たれると、徳川家と北条家は織田領(旧武田領)の信濃・甲斐にそれぞれ侵攻した(天正壬午の乱)、北条家は家康の背後を襲おうと北条氏忠・氏勝軍の別働隊10,000を進軍させた。
元忠はわずか2,000の兵でこの軍を撃退し北条勢約300を討ち取とる軍功をあげた。そしてこの活躍が認められ、戦後家康より甲斐国都留郡(山梨県都留市)を与えられ、初め岩殿城に入り、やがて谷村城主となった。
この地域は武田家臣の小山田氏が独自の支配体制を確立していた上、北条氏との国境地域であったことから特に重臣である元忠が配置されたとみられる。
また、元忠には朱印状を含めた印判状の発給が許されたり、家康直属の奉行人と言えども元忠本人の了承なしに領内の統治に関与できないなど、家康からは軍団長として一定の排他的自律性に基づく支配が認められていた
関東移封
上田合戦
1585年、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、大久保忠世・平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退される。。
小田原合戦と関東移封
1590年の小田原征伐にも参加し、岩槻城攻めに参加した。
戦後家康が関東に移封されると、下総国矢作城4万石を与えられた。
元忠の配置は常陸国の佐竹氏や東北地方の諸大名の南下に対する備えであり、引き続き強い支配権限が与えられていたとみられ、その位置づけは元忠没後の鳥居氏の東北地方要地への移封につながったと考えられている。
矢作城に入ったが、城の狭隘を理由に、岩ヶ崎へ新城を築き移り住む。岩ヶ崎城は佐原市岩ヶ崎字城山にあり、元忠は岩ヶ崎城を本格的に築城するため普請奉行を決め仕事に着手したが、完成をみずに廃城となった。
関ケ原合戦
家康との最後の盃
家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、元忠は伏見城を預けられた。これは上杉討伐のために大阪を離れる家康に対して三成が反徳川軍を挙兵させる決心をさせ、また、家康が戻ってくるまでの囮役であり負け戦が確実で間違いなく討死が間違いない役であった。
家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「わしは手勢不足のため、伏見に残す人数は3000ばかり。そなたには苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、
一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。
伏見城の戦い
家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと矢作等から徴発した1,800人の兵力で立て籠もった(伏見城の戦い)。
元忠は最初から玉砕を覚悟で、三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して遺体を送り返し、戦い続けた。13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎討ちの末に討ち死にした。享年62歳であった。
元忠の首級は京橋口に晒されたが、親交のあった京の商人佐野四郎右衛門が知恩院の内である長源院に葬ったといわれている。 その忠節は大久保忠教より「三河武士の鑑」と称された。
こぼれ話
血染め畳
最期の地になった伏見城に残された血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、 登城した大名たちの頭上に掲げられた。明治維新による江戸城明け渡しの後、その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、 壬生城内にあり元忠を祭神とする精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。 床板は「血天井」として京都市の養源院をはじめ宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に今も伝えられている。
元忠の具足
元忠所用の「糸素縣縅二枚胴具足」は鈴木重朝が召し取ったものの、重朝は元忠の子の忠政に形見として送付しようと打診した。 忠政は感激しながらも「名誉と共にご子孫に伝えてほしい」と丁重に断った。 その後、近年に至るまで重朝の子孫に代々伝わっていたが、子孫が大阪城天守閣に展示されていた関ケ原合戦の絵巻を鑑賞した際、絵巻に描かれていた伏見城で重朝と元忠が一騎打ちをする場面をみて「元忠が纏う鎧の色彩や形が実物と違うのでは」と気づいた。 調べたところ絵巻は後世に想像で描いたものである一方、胴具足は元忠の遺品の可能性がある、との結論に至った。 2004年に鈴木家から大阪城天守閣に寄贈された(なお兜は幕末期に新調されている)
元忠の遺族
家康は忠実な部下の死を悲しみ、嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格している。 また元忠の孫にあたる忠恒と玄孫の忠則とが、江戸時代にそれぞれ不行跡として改易の憂き目にあった際、いずれも元忠の勲功が大きいとして減封による移封でいずれも断絶を免れた