概 要
徳川家臣。鳥居元忠の次男。長兄・康忠は早世したため、父が伏見城で戦死した後に家督を相続し下総矢作藩主となる。関ヶ原合戦・大坂夏の陣では江戸城留守居番を勤めた。最上氏が改易されると東北諸大名の監視として出羽最上二十二万石に移封さらた。
ポイント
- 鳥居元忠の次男。元忠の死後、鳥居家の家督を相続する
- 下総矢作藩主→陸奥磐城平藩主→出羽山形藩主
- 東北諸大名の監視として出羽山形藩主となる
誕生・死没
- 誕生:1566年
- 死没:1628年
- 享年:63歳
- 死因:病死
- 墓所: 東京都文京区の江岸寺
同い年の武将
名 前
- 松千代(幼名)
- 新太郎(通称)
所 属
- 松平(徳川) 家
- 藩:下総矢作藩主→陸奥磐城平藩主→出羽山形藩主
親 族
父 | : | 鳥居元忠 |
母 | : | 松平家広の娘 |
正室 | : | 滝川雄利の養女 |
側室 | : | 内藤氏 |
兄弟 | : | 康忠、忠政、成次 |
忠勝、忠頼、忠昌 | ||
土岐定政の正室、真室御前 | ||
子 | : | 忠恒、戸沢定盛、忠春、井伊直勝正室 |
桂岳院、酒井忠勝正室、宗姫 | ||
真田信重正室、大河内忠雄室ら | ||
養女 | : | 牧野信成の正室 |
略 歴
1566年 | 0歳 | 鳥居忠政の次男として誕生 |
1600年 | 14歳 | 関ケ原の戦いに従軍 平岩親吉に仕え谷村城主となる |
1603年 | 17歳 | 平岩親吉が徳川義直の家臣となる |
1607年 | 21歳 | 平岩親吉の尾張国清州移封に同行 |
1612年 | 26歳 | 御室浅間神社本殿の造営を行う |
1615年 | 29歳 | 大阪夏の陣に従軍 |
1616年 | 30歳 | 徳川秀忠の次男・国千代(忠長)の附家老となる |
1624年 | 38歳 | 駿河国3万5000石を領する |
1631年 | 45歳 | 忠長がは蟄居処分となり、成次も失脚した 死去 |
鳥居家とは
出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄
鳥居家の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。
家康の家臣として活躍
小牧・長久手の戦い
1584年、忠政は徳川家康に従い「小牧・長久手の戦い」に参陣した。さらに1586年に家康に従い上洛し、従五位下左京亮に叙任された。
鳥居家の家督相続
1600年、父・元忠が伏見城攻防戦で討死し、長兄・康忠は早世していたので鳥居家の家督は忠政が継ぎ、下総矢作藩主となった。
また、関ヶ原合戦時、忠政は家康の命令で関ヶ原の戦いの時は江戸城留守居役を勤めていた。戦後に父の戦功によって陸奥磐城平に10万石を与えられ、亡父・元忠のために長源寺を建て家康から香花料として100石を賜っている
関ケ原合戦後
出羽山形藩主
大坂の冬・夏の陣では江戸城の留守居役を務めた。
1622年、最上氏が改易された後を受けて出羽山形22万石に加増移封され、妹婿で新庄藩主・戸沢政盛、娘婿で鶴岡藩主・酒井忠勝、従弟で上山藩主・松平重忠らと共に、徳川氏の譜代大名として伊達政宗などの東北諸大名の監視を命じられた。
死 去
1628年、山形で死去した。享年63歳であった。
忠政の死後、鳥居家の家督は長男・忠恒が継いだ。
こぼれ話
父・元忠の遺品
関ヶ原の戦いの後、伏見城で父・元忠と戦った鈴木重朝から元忠所用の「糸素縣縅二枚胴具足」の返還を申し出を受けた。
忠政は深く感銘し重朝にこの具足を譲り、2004年に鈴木家から大阪城天守閣に寄贈されている(なお兜は幕末期に新調されている)。