小牧長久手の戦いで戦功を挙げた桜井松平家6代目当主
松平 家広
概 要
松平忠正の長男。桜井松平家6代目で徳川家家臣。叔父・忠吉の死後、5歳の若さで桜井松平家の家督を継ぐ。小牧の戦いでは敵兵を多く討ち取る功績を挙げる。家康の関東入封に伴って武蔵国松山城を与えられ1万石を領した。
ポイント
- 松平忠正の長男。桜井松平家6代目
- 小牧長久手の戦いで活躍
- 家康の関東入封に伴いて武蔵国松山城を与えられ、1万石を領した
誕生・死没
- 誕生:1577年
- 死没:1601年
- 享年:25歳
同い年の武将
名 前
- 亀千代(幼名)
- 内膳正(別名)
所 属
略 歴
1543年 | 0歳 | 松平家次の嫡男として誕生 |
1563年 | 21歳 | 父と共に三河一向一揆に加担し家康と争う(一揆鎮圧後は家康に仕える) |
1568年 | 26歳 | 掛川城の攻略に従軍 |
1570年 | 29歳 | 姉川の戦いに従軍 |
1573年 | 32歳 | 野田城の戦いで武田家に敗れ捕虜となる(その後、解放される) |
1575年 | 33歳 | 長篠の戦いで戦功をあげる |
1577年 | 35歳 | 死去 |
桜井松平家の誕生
☆ 松平信定(忠正の大祖父)が松平親房に婿養子にだされ、その家系が桜井松平家となる
桜井松平家の祖は・松平長親の次男・松平信定(家次の祖父)
長親の死後、信定の兄である信忠が松平家の家督を継いだが信定は一族・家臣からの人望に乏しく、また大将としての器量もなかったため、家臣達からは三男・信定の家督継承を望む声が多かった。また、信定は父・長親からの期待も受けたともいわれる。
しかし、信定は叔父・松平親房(親忠の四男、入道宗安)の婿養子に出され、松平家の家督は信忠の子・清康が継いだ。
宗家跡目の候補から外された信定は、叔父の所領・三河国碧海郡桜井(安城市桜井)に桜井城を築いて居城とし、桜井松平家の祖となった。
誕 生
☆ 桜井松平家の父と家康の異父妹の母の間の子として誕生
1577年、4代当主・松平忠正の子として誕生。母は徳川家康の異父妹(久松俊勝の娘)である多劫姫。
しかし、家広が誕生してすぐに父・忠正が死去した。このため、叔父にあたる忠吉が桜井松平家を継ぎ、多劫姫を娶った。
忠吉と多劫姫の間には、家広の異父弟にあたる松平信吉・松平忠頼の兄弟が生まれた。
☆ 家督相続
1582年6月24日、忠吉も24歳の若さで死去した。そのため、家広は5歳で家督を継いだがまだ幼かったため、叔父にあたる松平忠広が後見に当たった。 その後、。
桜井松平家の当主として
☆ 小牧長久手の戦いで活躍
1583年7月3日、家臣の堀重純(小三郎)に家康の御朱印状(公文書)が出され、家広が正式に桜井松平家の家政を執行することとなった。※忠広は・隠居したといわれている
1584年の「小牧の戦い」では酒井忠次の軍勢に加わり、家広の配下は敵兵を多く討ち取る功績を挙げた。
☆ 関東入封
1590年、徳川家康の関東入封に伴って武蔵国松山城を与えられ、1万石を領した。1591年には九戸政実の乱に出陣し、中新田城(現在の宮城県加美町)の城番を務めた。
死 没
☆ 25歳の若さで死去
1601年6月14日、25歳の若さでで死去した。
『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』編纂時の呈譜では、家広は病によって異父弟の忠頼に家督を譲ったと記されており、1600年の関ヶ原の戦いには忠頼が従っている。
『寛政譜』が記載する「或説」によれば、家広は「ゆえありて」家康の勘気を蒙ったために1601年6月14日に自害し、無嗣のために家が絶えた(忠頼が絶家した家広の所領を賜った)という。