越後・上杉家と結び伊達家の地位を確立する

伊達 尚宗だて ひさむね

伊達尚宗

伊達尚宗

  ポイント

  • 伊達家13代当主
  • 上杉家と縁戚関係になる
  • 伊達稙宗の父

誕生・死没

  • 誕生:1453年
  • 死没:1514年?
  • 享年:62歳

同年代の人物

名 前

  • 不 明

所 属

官職・役職

  • 官位:従五位下 大膳大夫

親 族

略 歴

1453年 1歳  伊達成宗の嫡男として誕生
1473年 20歳  元 服
1487年 35歳  家督を継ぐ
1488年 36歳  嫡男・稙宗が誕生
1490年 38歳  米沢城北方に位置する塩野毘沙門堂を再建する
1494年 42歳  伊達家領内で騒乱が発生し蘆名盛高の下に非難する
1504年 52歳  足利義澄を領内に迎え擁立する
1514年 62歳  死 没

概 要

12代当主・伊達成宗の嫡男で13代当主。
越後・上杉定実の娘を娶り上杉家との連携を強化する。家臣・小梁川盛宗を派遣し、将軍・足利義澄を領内に迎えて、擁護しようとした。

誕 生

12代当主・伊達成宗の嫡男として誕生する。
20歳の頃に伊達家の慣例により、室町幕府9代将軍・足利義尚より偏諱の授与を受けて「尚宗」と名乗る。

縁 組

当時の伊達家は奥羽支配を目論んだ鎌倉府に端を発する古河公方との主権争いを、室町幕府と連携して退けようとしていた。
尚宗の父成宗は越後守護・上杉氏から積翠院を尚宗の嫁に貰い受け、奥州における伊達家の地位確立を画策してた。

伊達氏の騒乱

1494年頃、伊達氏領内で騒乱(詳細は不明)が発生し尚宗は合戦に破れ一時的に会津の蘆名盛高の下に避難した。
その後、蘆名盛高から援軍3000人を得て置賜郡長井へ侵攻し、竹森城の謀反軍を破った。

長享の乱

1507年関東管領・上杉顕定の後継を巡って養子の上杉顕実と上杉憲房の争いが勃発(長享の乱)。 顕実は実兄の古河公方・足利政氏を味方につけ、憲房は政氏の子・足利高基と結んだため古河公方が分裂した。
伊達尚宗・稙宗親子は足利高基側に付き出陣している。
さらに越後でも、顕定の実弟である越後守護・上杉房能と守護代・長尾為景の間に下剋上が起き、為景に擁された上杉定実へ伊達家は援軍を派遣する。結果房能は敗死し、定実は翌年越後守護に就任した。

放浪将軍・足利義澄の擁立

大内義興に将軍職を追われた京都の放浪将軍・足利義澄を領内に迎え、これを擁護することで伊達氏の勢力を盛り上げようとしたが、失敗した。

参考資料(引用元)