ポイント
- 伊達家12代当主
- 伊達植宗の祖父
- 大崎義兼をサポートする
官職・役職
- 官位:従四位上・兵部少輔
- 役職:奥州探題
略 歴
1435年 | 1歳 | 伊達持宗の嫡男として誕生 | 1469年 | 35歳 | 家督を継ぐ 国分氏との争いが激化 |
1479年 | 45歳 | 寒河江城に侵攻するが撤退 |
1480年 | 46歳 | 再び寒河江城に侵攻するが敗走 |
1483年 | 49歳 | 将軍家に太刀等を献上 |
1488年 | 53歳 | 大崎氏の内乱に介入? |
概 要
伊達家12代当主。上洛して将軍家に太刀23振、馬95頭、砂金380両、銭5万7000疋を献上して、その武威は奥州随一として知られる。のち大崎領内で内乱が起こり、当主・大崎義兼をサポートする。(尚宗の説あり)
誕生と家督相続
11代当主・伊達持宗の次男として誕生する。
兄・義宗(よしむね)は庶長子であり跡を継げなかったため(のち懸田詮宗の養子となる)代わって嫡男とされ、父・持宗の後を受けて、1469年家督を継いで当主となる。同時に奥州探題にも就任している
勢力拡大
成宗は1467年から1472年までの間、成宗は国分氏と3度戦っている、その争いに際して国分氏を支援した出羽国の寒河江氏も攻めている(国分氏とはその後和睦する)。
1479年冬、桑折播磨守を大将として寒河江城に侵攻するものの寒さの為撤退する。
1480年に再び寒河江城に侵攻するが、伊達軍は寒河江荘奥深くに誘い込まれ、桑折播磨守が打ち取られ壊滅した(菖蒲沼の戦い)。
その後、播磨守の子息は最上満氏の仲介により、戦場の見える慈恩寺山中に松蔵寺を開いて供養した。
奥州随一の大名の確立
1483年、成宗は上洛して足利将軍家に太刀23振、馬95頭、砂金380両、銭5万7000疋を献上している。
これは伊達氏の実力を奥州随一として中央に認めさせることにもなった。この際、観世大夫五世・之重に馬を送り、興福寺で薪能を見た。