奥州において一大勢力を誇った戦国大名

伊 達だ て


竹に雀

竹に雀

家系図

年 表

家 紋

竹に雀

竹に雀

竪三つ引両

竪三つ引両

出 自

鎌倉時代に源頼朝が奥州合戦(奥州にいた弟・義経とそれをかくまった奥州藤原氏を討伐した合戦)に従軍し、 戦功を挙げた「常陸入道念西」が頼朝より伊達郡(今の福島県北部)に 領地を与えられ「伊達朝宗」を名乗ったのが伊達氏の始まりとされる。常陸入道念西は平安時代の 官人・藤原山陰の子孫と称している。伊達郡の他にも丹波・備中方面にも領地を持っていたため、分流がそれらの地方に存在している。

概 要

本来は伊達家が所有する陸奥には、守護は置かれておらず奥州探題である「大崎家」の管轄にあったと言われている。
しかし、14代・稙宗が幕府に懇願し陸奥守護の補任を受ける事になった。これには稙宗以前の当主による幕府への政治的な工作が行われていたと推測される。


守護の職になり勢いにのる稙宗は次項に述べるように、巧みな外交戦術を屈して近隣諸国を支配下におくようになる。

14代稙宗、15代晴宗は子宝に恵まれており、その子達を近隣諸国に婿入り・嫁入りする事で勢力を伸ばしていった。特に14代・稙宗の時代には、羽州探題・最上家、奥州探題・大崎家に婿養子を出し 実施的な支配を伊達家が行っていたとされる。

天分の乱

~概要~
1542年ー1548年の6年間に及ぶ伊達氏当主・伊達種宗と嫡男・晴宗親子の争いである


~はじまり~
『天分の乱』は晴宗が父である種宗を桑折西山城に幽閉した事がきっかけと言われています。
では、なぜ晴宗は父である種宗を幽閉したのか?以下の2つの要因があったと言われています
1つは、種宗に献身的な娘婿である相馬顕胤に伊達領の一部となっていた旧相馬領を返還しようとした事。この案は晴宗の猛反発にあい無効となりました。
2つ目は、勢力拡大を目論んだ種宗が三男・時宗丸(後の実子)を上杉定実に養子として送ろうとした事。実は上杉定実に実子はおらず、種宗はここに養子を送り越後に介入を図ろうとしていた。しかし越後北部の本庄房長らがこれに反発し、挙兵すると、種宗はこれら反対勢力に対抗しようと選りすぐりの100名の家臣を時宗丸に付けて越後に留まるよう命令します。大勢の家臣を送る事で伊達家の弱体化を恐れた晴宗はこれに反発し、遂に稙宗の幽閉します。ここから天分の乱が始まります。



~幽閉そして脱出~
1542年晴宗は鷹狩りの帰路を襲って稙宗を捕え、居城西山城に幽閉します。しかし稙宗の側近である小梁川宗朝によって救出され、懸田城に逃げ込みます。小梁川宗朝は伊達家の一門であり、若い頃に稙宗に金銭的な援助を受けており、稙宗に絶対的な忠誠を誓っていました。



~奥州全土を巻き込んだ大乱~
懸田城に逃げ込んだ種宗は相馬顕胤を始めとする奥州全土に散らばった縁戚関係に当たる諸大名に救援を要請します。

武 将 (名前クリックで詳細)

 伊達成宗
 (1435-1487)

伊達氏12代当主。中央政権に送りものを送り伊達氏の奥州での実力を示した。

 伊達稙宗
 (1539-1587)

伊達家14代当主。近隣の諸大名との縁組を推進し勢力拡大を図った。「天分の乱」の原因者。

 伊達晴宗
 (1488-1565)

伊達家15代当主。「天分の乱」で父・稙宗を幽閉し家督を継ぐ。家督を継いだ輝宗とも確執があった。

 伊達輝宗
 (1544-1585)

伊達家16代当主。相馬氏など周辺大名との抗争を抱え、多難な時代を生きた大名。壮烈な最期を遂げた。

 伊達政宗
 (1567-1636)

伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。

 伊達成実
 (1568-1646)

伊逹一門で人取橋の戦いや摺上原合戦などで軍功をあげた。その後出奔もするが最終的には伊達家に帰参する。

 片倉景綱
 (1557-1615)

政宗の傅役となり「智」の面で政宗を補佐した智将。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣するよう政宗を説得し、伊達家の存続に貢献した。

 片倉重長
 (1584-1659)

大坂夏の陣で後藤基次らを討ち取るなど活躍し、徳川家康から「鬼」と評された。この時に真田幸村の娘・梅を保護し、のちに妻とした。

 亘理重宗
 (1552-1620)

伊達家重臣・亘理家18代当主、輝宗の変わりに相馬氏との戦いを指揮する。

 鬼庭良直
 (1513-1586)

稙宗の子・盛重が国分家に入嗣する際、国分家に赴き仕置を行った。のちに評定役となる。人取橋合戦の際に老齢の身ながら殿軍を務め、戦死した。

 鬼庭綱元
 (1549-1640)

主君・政宗から絶大な信頼を得た。朝鮮派兵の際に、豊臣秀吉の愛妾・香の前を賜り、政宗の怒りを買って出奔。のちに帰参し、国老として国政に携わった。

 石母田景頼
 (1559-1625)

陸奥石母田城主。代々伊達家に仕えた重臣。政宗の所領が大幅に削られた際、景頼も居城を追われた。 初代宇和島藩主となった伊達秀宗(政宗の嫡男)の筆頭家老(奉行)として藩政の運営にあたった。

 懸田俊宗
 (?-1553)

懸田城主。天文の大乱に際しては舅・稙宗に属して活躍。乱の終息後、居城・懸田城を廃城とする講和条件に不満を持ち謀叛を起こすが、捕らえられ斬られた。

 桑折景長
 (1506-1577)

天文の乱では晴宗方の主力として活躍し、晴宗が奥州探題となった際、牧野久仲とともに奥州守護代となった。

 桑折宗長
 (1506-1577)

天文の乱では晴宗方の主力として活躍し、晴宗が奥州探題となった際、牧野久仲とともに奥州守護代となった。

 桑折政長
 (1506-1577)

桑折宗長の嫡男として生まれる。伊達政宗に仕え、数多くの戦陣に出陣し、武功をあげる。朝鮮出兵に従軍したが、病にて釜山浦で病没した。

原田宗時
(1565-1593)

18歳で原田城主となり各地で功を立てた剛勇の士。輝宗やその子・政宗の厚い信頼を受けた。豊臣秀吉の朝鮮派兵に従軍中、病死した。伊達騒動の主人公・原田甲斐宗輔は孫にあたる。

原田宗資
(1582-1623)

桑折宗長の子。原田宗時の死後、政宗の命で原田家の後を継ぐ。関が原合戦では宿敵「相馬家」を説得し伊達軍の領国通過を認めさせた。

 猪苗代盛国
 (1536-1590)

長男・盛胤の廃嫡を企むが発覚し、盛胤と争った。のちに主家に背いて伊達家に属し、摺上原合戦では先鋒を務めて蘆名軍と戦った。

 留守郡宗
 (?-1495)

留守家15代当主。伊達持宗の五男。留守家の内乱に介入し留守家の家督を継ぐ。

 留守景宗
 (1492-1554)

伊達尚宗の子。留守家15代当主・郡宗の娘を娶り、留守家督を継ぐ。天文の乱では甥の伊達晴宗に協力し、実兄・稙宗に与した国分氏と戦った。

 留守顕宗
 (1492-1554)

留守景宗の嫡男で留守家17代当主。国分家らと戦いを繰り返した。のちに伊達晴宗の三男・政景を娘婿として隠居。この際嫡男・宗綱は高城家の養子となった。

 留守政景
 (1549-1607)

伊達晴宗の三男で留守顕宗の娘を娶り留守家の家督を継ぐ。兄・輝宗や甥・政宗に従い、相馬家や最上家などと戦った。関が原の合戦では伊達軍の総大将として最上家救援に赴いたのちに伊達姓に復した。

 国分盛重
 (1553-1615)

伊達晴宗の十男。兄・輝宗の命で国分家を継ぐ。人取橋の戦い等で活躍するが。その後、処遇に不満を抱き伊達家を出奔し姉の嫁ぎ先である佐竹家に身を寄せた。

 国分盛重
 (1553-1615)

伊達晴宗の十男。兄・輝宗の命で国分家を継ぐ。人取橋の戦い等で活躍するが。その後、処遇に不満を抱き伊達家を出奔し姉の嫁ぎ先である佐竹家に身を寄せた。

 石川 昭光
 (1550-1622)

伊達晴宗の四男。後に石川晴光の養子となる。佐竹氏に従い甥の政宗と対立するがのちに伊達氏に従った。小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収され伊達一門に復帰する。

 白石 宗実
 (1553-1599)

輝宗、政宗に仕えた伊達家の猛将。相馬氏との戦いや人取橋の戦い、摺上原の戦いなど、政宗の奥州制覇における主要な戦で戦功をあげる。葛西大崎一揆鎮圧後、政宗から1万5000石与えられ水沢城主となった。

四釜隆秀
(?-?)

元は大崎家臣四釜城主。剛勇にして智力ありと謳われた。大崎家内乱の際には、主君・義隆の命で中新田城を守り、侵攻してきた伊達軍と抗戦、これを撃退した。葛西大崎一揆後は伊達家臣となった。

浜田景隆
(1554-1591)

伊達家の主要な戦などで活躍し、伊達政宗からの信頼を得る。1591年「葛西大崎一揆」で、加美郡宮崎城攻めの最中に被弾し討死した。

飯坂宗康
(不明-1591)

伊達政宗に需用された人物。人取橋の戦いでは本陣に攻め寄せる敵軍に突入して力戦し、政宗の退却を助けた。

後藤信康
(不明-1591)

長井郡洲島城主・湯目重弘の二男として生まれた後に後藤信家の養嗣子となって後藤氏の家督を相続した。輝宗・政宗親子に従い各地で転戦し戦功を挙げる。

保土原行藤
(1538-1620)

二階堂家庶流。保土原館主。伊達政宗が主家を攻めた際に内応し、以後は伊達家に仕える。和歌や茶道に精通していたため、政宗に敬われて伊達家の一家に扱われた。

大内定綱
(1545-1610)

陸奥の豪族。塩松城及び小浜城主。伊達政宗に帰属するが、後に敵対。その後、政宗の攻撃を受けて敗北し以後は伊達家に仕えた。戦上手として名高く、調略にも長け、武術においては十文字槍を得意とした。