享徳の乱や長享の乱を戦う過程で守護領国を完成させた
上杉 房定
概 要
上条上杉家の上杉清方の子として誕生。その後、越後上杉家の養子となり越後守護となる。
「享徳の乱」では16年間ものあいだ関東に滞在し足利成氏と戦ったほか「長享の乱」でも活躍した。
ポイント
- 越後上杉家の庶流「上条上杉家」出身
- 養子として越後上杉家に入り守護となる
- 「享徳の乱」で足利成氏方と戦う
- 次男は関東管領となり、長享の乱ではサポートする
- 守護領国を完成させた
誕生・死没
- 誕生:1431年
- 死没:1494年
- 享年:64歳
名 前
- 常泰(号)
所 属
官 位
- 左馬助、民部大輔、従四位下相模守
役 職
- 越後・信濃守護
同い年の人物
- 蘆名盛詮、島津友久、武田信広
親 族
父 | : | 上杉清方 |
養父 | : | 上杉房朝 |
妻 | : | 青蔭庵月山妙皓禅定尼 |
芳賀某娘 | ||
兄弟 | : | 定顕、房定、房実(連歌作者) |
子 | : | 定昌、顕定、房能 |
蘆名盛高の正室、畠山義元室? | ||
養子 | : | 積翠院(伊達尚宗の正室) |
略 歴
1531年 | 0歳 | 上条上杉家の上杉清方 |
1447年 | 16歳 | 足利成氏が鎌倉公方に復帰 |
1449年 | 18歳 | 従兄で越後守護・上杉房朝が死亡し、房定が越後守護の家督を継ぐ |
1450年 | 19歳 | 守護代長尾邦景・実景父子を攻める |
1454年 | 23歳 | 足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害(享徳の乱が勃発) 房定が成氏討伐のため関東に追討する |
1455年 | 24歳 | 上野三宮原、穂積原で成氏軍に勝利し下野国足利まで進出する 房定が五十子(埼玉県本庄市)に陣を構える |
1459年 | 28歳 | 五十子の戦い |
1464年 | 33歳 | 信濃の高梨政高(成氏側)を攻める |
1466年 | 35歳 | 房定の子・顕定が山内上杉家に養子に入り関東管領を継ぐ |
1469年 | 38歳 | 越後守護代・長尾頼景が死去したため越後に帰還する |
1478年 | 47歳 | 足利成氏と和睦する |
1482年 | 51歳 | 都鄙和睦(幕府と古河公方の和解) |
1487年 | 56歳 | 長享の乱が勃発(山内上杉VS扇谷上杉) 出家し常泰と号する |
1488年 | 57歳 | 関東に残した嫡男・定昌が自害する 房定が関東へ出陣 |
1489年 | 58歳 | 揚北衆の本庄房長が反乱を起こす |
1493年 | 62歳 | 揚北衆の本庄房長が二度目の反乱を起こす |
1494年 | 64歳 | 死 去 |
出自と越後守護就任
越後守護の血縁家・上条上杉家の子として生まれる
房定は上条上杉家のことして誕生する。
上条上杉家は越後守護上杉房方の子で房定の父・上杉清方が上条城(現・新潟県柏崎市)に居城し上条上杉を称したのが始まりである。
なお、初代・米沢藩主となった上杉景勝は上条上杉家の血筋をひいている。
越後守護就任
1449年、従兄で越後守護・上杉房朝が急死すると房朝の側近・長尾頼景に擁立され上杉家6代当主として越後国の守護となった。
国内で権力を保持していた長尾邦景・実景親子を攻める
越後上杉家の家督をついで越後守護となった房定だが、鎌倉公方の問題などで幕府のもと京都に在京することが多く、越後国内の権力は守護代である越後長尾家に集中していた。
これに危機を感じた房定は、京から越後に下向し鎌倉公方の問題で対立していた、頼景の伯父の守護代・長尾邦景、実景父子を攻めた。この結果、邦景は自害し、実景は信濃に逃亡した。
その後、実景は反乱を起こすが房定の命令を受けた長尾頼景らによって鎮圧され、その結果越後守護は長尾頼景に移り、房定は政権掌握に成功した。
享徳の乱
足利成氏が鎌倉公方となり「享徳の乱」が勃発
足利義教の死後、房定の前任である房朝らの働きによりのもと鎌倉府が復興した。房定もこれに賛成していた。
しかし、成氏が房定の従兄で山内上杉家の関東管領・上杉憲忠を暗殺した事をきっかけに「享徳の乱」が勃発すると成氏と房定の関係も悪化した。
幕府は房定に成氏討伐の命を発し、これに応じた房定は関東に進出し憲忠の弟・房顕と合流、成氏軍を次々と破り五十子(本庄市児玉郡)を本拠地として陣を構え(五十子陣)、以後16年にわたって関東に滞在して各地で成氏方の諸将との戦うこととなる。
五十子の戦い
1459年、上杉軍は大規模な攻撃を古河公方軍にしかけ、武蔵国太田荘、海老瀬口、羽継原で相次いで成氏軍と戦った(五十子の戦い)。しかし、『香蔵院珎祐記録』などからこの一連の合戦で上杉方は敗北したと見られている。以後、戦況は膠着状態となった。
幕府と古河公方の和解
房定の子・顕定が関東管領になる
房定の子・顕定が関東管領になる
1466年、関東管領・上杉房顕が子供を残さずに死去した。
山内上杉家の家宰・長尾景信は房定の次男・顕定を後継者に推挙したが、山内上杉家中にこの事に反対する者も多く、房定はなかなか承諾しなかった。
しかし、8代将軍・足利義政の後押しで、房定はこれ承諾し、関東管領・山内上杉家に顕定を養子いだし関東管領に就任さた。その結果、房定は上杉諸家の長老となった。関東への影響力も増し、実質的に越後上杉家は享徳の乱における上杉方の総大将の立場となった。
守護代・頼景が死去し、房定が越後に帰る
1469年、守護代として越後国の留守を守った長尾頼景が死去し房定が越後へ帰還する
守護代は子・重景が継いだが、越後の国内の不安を案じた房定は、1471年までに嫡男の定昌を上野白井城に留めて自身は越後に帰還した。それ以降も上杉方は成氏方へ攻勢をかけており、義政は何度も房定へ好機を逃さず関東へ出陣するよう要請したが、房定は信濃や越後国内の政情不安を理由になかなか応じなかったという。
古河公方との和解
1476年、上杉家の人事に不満を抱いた山内上杉家の重臣・長尾景春が武蔵鉢形城にて上杉軍に対して反旗を翻えした。
これによって乗じた古河公方・足利成氏の攻勢によって追い詰められた上杉軍は1478年に古河公方と和睦を結び、さらに1480年頃から上杉氏・幕府と古河公方との和睦交渉が始まるが、房定はこの交渉において決定的な役割を果たし、1482年に「都鄙和睦」を成立させ幕府と古河公方は正式に和睦を結び約30年に及んだ享徳の乱は終結した。
長享の乱
長享の乱の勃発
長享の乱の勃発
「享徳の乱」の終結から約4年後、都鄙和睦に不満を抱いていた扇谷上杉家当主・上杉定正と扇谷上杉家の勢力を拡大を危惧した関東管領山内上杉家当主・上杉顕定(房定の次男)との間で対立が生じた。
そして、1486年、上杉定正が太田道灌を暗殺したことをきっかけに両者の対立は決定的になり「長享の乱」が勃発した。
嫡男・定昌の死
「長享の乱」が始まると房定は白井城に配した嫡男・定昌を通じて顕定を支援していたが、定昌は1488年に白井城で自害(原因については諸説ある)してしまった。
これを受けて房定は自ら関東に出陣し扇谷方と戦った。しかし、乱は扇谷方の優勢で進んだ。
房定自身は乱の途中で死去した。
越後国内の情勢と晩年
京との交流
享徳の乱や都鄙和睦の交渉の過程で京都との関係は深まり、将軍家や在京公家との交流も盛んになった。1486年に房定は一国の守護としては破格の待遇である従四位下相模守に任じられたが、この官位を得るために近衛政家と接触して吉田神社の造営費を送り、足利義政や関係者にも莫大な金品を貢いでいた。
文化保護
応仁の乱で荒廃した京都からは飛鳥井雅康や聖護院道興といった一流の教養人として知られた公家・僧侶が越後に下向するようになった。
連歌師宗祇や歌人尭恵、太田道灌の死で扇谷上杉家のもとから離れた万里集九も越後を訪れた。房定はこれをよく保護したため、越後の文化発展にも貢献するところとなった。当時の越後府中や房定と側近達の様子は『梅花無尽蔵』などに記されている。
越後の情勢と晩年
房定は信濃の半国守護にも任命され、1483年から19年にかけて行われた検地では倍以上の増分を検出するなど国内領主への統制を強めた。揚北衆の本庄房長は1489年・1493年の二度にわたって反乱を起こしたが、鎮圧軍として派遣された守護代長尾能景や伊達氏の上杉方への合力によって鎮圧した。また、1487年に出家し常泰と号した。
その後、1494年10月17日死去。享年64。家督は末子・房能が継承した。