関東を統治した鎌倉府の長官 幕府との対立が関東大戦乱の原因となった

足利(鎌倉・古河公方)あしかが(かまくら・こがくぼう)

二つ引両

二つ引両

家系図

古河公方家系図

年 表

 1438年

足利持氏の三男として成氏が誕生する

 1439年

鎌倉公方・足利持氏が上杉憲実に破れ自害し永享の乱が終結する(鎌倉公方の滅亡)

 1440年

結城氏朝・持朝父子が蜂起し、結城合戦が勃発

 1441年

持氏の遺児・春王丸、安王丸が殺害され結城合戦が収束する(成氏は京都に送還される)

 1449年

鎌倉府再興運動が起こり成氏が京都から鎌倉に帰環し鎌倉公方となる

 1450年

江ノ島合戦が勃発

 1454年

足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺し享徳の乱が勃発

 1455年

武蔵分倍河原の戦いが勃発これに勝利する

足利(鎌倉公方)が朝敵となる

今川家が鎌倉を制圧

 1457年

成氏が拠点を古河に移す(古河公方誕生)

 1458年

伊豆に堀越公方が誕生する

 1462年

2代公方・足利政氏が誕生

 1465年

応仁の乱が勃発

 1471年

伊豆の堀越公方を攻めるが撃退する

 1476年

山内上杉家内で長尾景春の乱が勃発

 1478年

幕府・上杉家との和解が成立する

 1485年

3代公方・足利高基が誕生

 1489年

長享の乱が勃発
成氏が隠居し家督を政氏が継ぐ

 1496年

武蔵柏原合戦で山内上杉家側として戦う

 1497年

足利成氏が死去する

 1504年

武蔵立河原の戦いで北条早雲・今川氏親と戦う

 1505年

足利義綱が上杉顕定の養子に入る

 1506年

政氏と高基(政氏の嫡男)が対立する

 1508年

4代公方・足利晴氏が誕生

 1510年

義明が独立し小弓御所が誕生する(永正の乱)

 1512年

高基が政氏を追放し家督を継承する。

 1516年

縄釣の戦いで宇都宮成綱が政氏方の佐竹義舜を破り名実ともに古河公方となる

 1529年

第3代公方・高基と嫡男・晴氏の家督争いが勃発(関東享禄の内乱)

 1531年

晴氏が関東享禄の内乱に勝利し家督を継承

 1538年

第一次国府台合戦で北条氏綱と同盟し小弓公方・足利義明を滅亡させる

 1541年

晴氏の次男として5代公方・足利義氏が誕生

 1546年

北条家と対立し、河越夜戦で大敗すると古河公方としての権力を失う

 1552年

家督を足利義氏(母・北条氏綱の娘)が継承する

 1554年

北条家に古河城を攻められ降伏

 1557年

晴氏とその長男・藤氏が古河城に復帰し北条家への挙兵を心みるが失敗する

 1560年

晴氏が死去

 1561年

上杉謙信の救援をえて、足利藤氏が古河城に入城する

 1562年

北条家が古河城を攻撃し藤氏が幽閉される。
以降は北条家の傘下に降る

 1583年

足利義氏が男子を残さず死去し古河公方は消滅する

家 紋

二つ引両

二つ引両

出 自

鎌倉公方とは、鎌倉府の長官で(室町幕府が関東10か国を統治するために設置した機関)足利尊氏の四男(正室の子としては次男)・足利基氏を祖先とする。

永享の乱

1439年、第4代・鎌倉公方・足利持氏と室町幕府・6代将軍足利義教・関東管領上杉憲実とが対立し、鎌倉公方・足利持氏が討たれて鎌倉府は滅亡した。この足利持氏の叛乱を「永享の乱」といい後に関東における大乱のきっかけとなる。

結城合戦

1440年、幕府と関東管領・上杉氏に反発する結城氏朝を始めとする諸豪族が持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟を奉じて下総の結城城に立て籠もると、これを上杉清方が鎮圧する(結城合戦)など、不安定な状態が続く。永享の乱・結城合戦の結果、上杉氏は所領を拡大したが、逆に圧迫された伝統的豪族の反発は後の大乱の遠因ともなった。

鎌倉公方の再興

1447年、幕府は持氏旧臣らによる鎌倉府再興の要望を受け入れ、持氏の遺児の足利成氏が第5代鎌倉公方に就任した。
幕閣内では前管領の畠山持国の支援があり、上杉氏も新たな鎌倉公方が対立する諸豪族との仲介になることを期待したという。

関東大乱の前哨戦「江の島合戦」

鎌倉公方が復活し、小山氏・結城氏・宇都宮氏・千葉氏・那須氏・小田氏等の伝統的豪族と、関東管領山内上杉家・扇谷上杉家との緊張関係は改善されるかと思いきや、1450年には、山内上杉家の長尾景仲と扇谷上杉家の家田資清が足利成氏を襲撃する事件(江の島合戦)が発生した。
難を逃れた成氏は両者の処分を幕府に訴えたが実現しなかった。1452年、管領が細川勝元に代わると、幕府の対東国政策も変化し、関東管領の取次がない書状は受け取らないなど、幕府は上杉家に対して優遇てきな政策をとり鎌倉公方に対して厳しい姿勢をとった。

関東戦国時代の幕開け「享徳の乱」の勃発

1454年、古河公方・足利成氏が父の仇である関東管領・上杉憲忠を謀殺すると、鎌倉公方VS関東管領の戦い「享徳の乱」が勃発する。
1455年)、分倍河原の戦い・小栗城(筑西市)の戦い等、緒戦は成氏勢が有利だったが、室町幕府は成氏討伐を決め、同年6月、上杉氏援軍の今川範忠勢は、成氏が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を制圧した。
行き場を失った成氏は下総の古河を新たな本拠とし「古河公方」を設立した。

一方、室町幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は鎌倉へ行けず伊豆の堀越を御所としたため、これを堀越公方と呼ぶ。以後およそ30年間にわたり、おもに下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方・伝統的豪族勢力と、おもに上野国・武蔵国・相模国・伊豆国 を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力とが、関東を東西に二分して戦った。

「享徳の乱」の終結

緒戦で不利だった上杉勢は、五十子陣を始めとして、河越城・岩付城・江戸城などの拠点を整備して反撃に転じ、長年に渡って一進一退の戦況が続いた。しかし1476年、山内上杉氏家宰の後継争いに起因した長尾景春の反乱が発生するなど、上杉氏内部が不安定となると、足利成氏と幕府との和睦が成立した。

結果として、堀越公方は伊豆一国を支配することとなり、実質的に成氏は関東公方の地位をあらためて幕府に承認されたと考えられている。
しかし、関東は古河公方と堀越公方の並立、山内・扇谷両上杉氏間の抗争(長享の乱)勃発など、不安定な状態は継続しており、成氏が鎌倉に戻ることはなかった。
鎌倉は相模守護である扇谷上杉氏の支配下にあったが、その後、1512年8月頃に伊勢宗瑞(北条早雲)の支配下に置かれることになる。

関東管領・上杉家との関係修復

享徳の乱終結後、今度は山内上杉家と扇谷上杉家との抗争(長享の乱)が始まった。扇谷上杉定正が家宰の太田道灌を暗殺した直後の1488年、山内上杉顕定が扇谷勢へ攻撃を開始する。
古河公方成氏とその嫡男・政氏らは扇谷上杉家を支援し、相模実蒔原・武蔵須賀谷原・武蔵高見原の合戦で参戦し扇谷家の勝利貢献した。

しかし、1494年に再び両上杉家が衝突すると、足利公方の家督を継承した政氏は山内上杉側につき扇田谷上杉家の家督を継承した上杉朝良が駿河国の今川氏親や伊勢宗瑞(北条早雲)らの支援を得た扇谷上杉家と再度対陣し、永正2年に山内勢が朝良の本拠河越城を攻撃すると、朝良は顕定に和睦を申し出て乱が終結した。

この抗争の中で、上杉顕定は古河公方との結びつきを強化する。上杉顕定は政氏の弟を養子に迎えて後継者(顕実)とするなど、関東管領を古河公方「御一家」を形成していった。

古河家の内紛(永正の乱)

1506年、足利政氏の嫡子である高基は、政氏との不和が原因で、義父の宇都宮成綱を頼って下野宇都宮に移座し、公方家を動揺させる内紛(永正の乱)が始まった。
1512年、上杉憲房が上杉顕実本拠の武蔵鉢形城を攻略した後、顕実は政氏を頼って古河城に逃走し、その直後に政氏も小山成長を頼って小山祇園城に移座した。代わりに高基が古河城に入り、第3代古河公方の地位を確立した結果、政氏・顕定(顕実)体制から、高基・憲房体制に置き換わった。
1516年、高基方の中心人物である宇都宮成綱が縄釣りの戦いで政氏を支持する佐竹義舜・岩城由隆に勝利したことや、政氏を支持する那須氏が宇都宮氏と同盟を結び、高基方に寝返ったことや、小山氏内部において、高基を支持する小山政長らが主導権を握ることになると、政氏の敗北は決定的になった。政氏は扇谷上杉朝良を頼って岩付城へ移座した。
またこの争いの中、足利高基の弟である義明が高基側の下総・原氏から小弓城を奪取し「小弓公方」と称し独立した。

北条家との対立(河越合戦)

1538年、足利高基の嫡男である晴氏の時代になると、北条氏綱の力を借りて国府台合戦に勝利し、小弓公方を滅亡させると、氏綱の娘が晴氏のもとに入嫁する等、古河公方体制内における後北条氏の影響力が増大していった。さらに北条氏綱は自らを古河公方足利氏「御一家」・関東管領であるとし、上杉家や周囲の大名達に対し威圧していった。

山内上杉家による北条家への攻撃が起きると足利晴氏は、後北条家を継いだ氏康の要請により当初は静観したが、結局は憲政の求めに応じて、自ら兵を率いて河越城攻撃に参加した。しかし、両上杉・古河公方の連合軍は寡兵の後北条勢に敗れ、朝定は敗死・憲政は上野平井城に敗走・晴氏も古河城に敗走した。その後、憲政は越後国に逃れ、上野国も後北条氏の勢力範囲内になる。

劣勢になった晴氏は後北条氏の介入を排除できなくなり、次の古河公方になるはずだった足利藤氏を廃嫡し、1552年には自らも退いて、氏康の甥にして婿である足利義氏を第5代古河公方とした。義氏は後北条氏の庇護のもとで公方権力を行使し、後北条氏が関東諸豪族に介入することになる。
1554年、晴氏とその嫡男・藤氏は古河城に籠城し、後北条勢に抵抗したがかなわず、晴氏は相模の秦野に幽閉された。

北条氏政と上杉謙信の公方擁立争い

1560年、北条氏康が隠居して、北条氏政が家督を継いだ直後、長尾景虎(後の上杉謙信)が関東侵攻を始めた。景虎は将軍足利義輝から御内書を得た上で、越後に逃れた上杉憲政を奉じ、三国峠から上野に進出した。1561年、古河城には景虎が正統な古河公方として擁立した足利藤氏が入った。このとき、憲政および景虎を支援する近衛前久も古河城に入る。一方、義氏は後北条側に参陣するように、関東諸士に対して多数の軍勢催促状を発給したが、結局、古河城に近い関宿城から退去した。

同年、景虎はさらに後北条氏本拠の小田原城を攻撃したものの、落城には至らずに撤退する。その直後、景虎は上杉憲政から山内上杉家の名跡を譲り受けて、関東管領も引き継いだ。上杉景虎と、北条氏政はそれぞれ異なる古河公方を奉戴し自らの関東管領の正統性を争うことになった。その後も両者は互いに攻防を繰り返し、1562年には、北条氏照の攻勢を受けて、藤氏は北条家に捕らえられその後死没した。

古河公方の消滅

上杉家と北条家が同盟すると義氏は古河城に入り、古河公方の地位を確立する。しかし、もはや関東に。古河公方の権力はなく、その必要性も低下した。
1583年、義氏が男子を残さず没した後にも、何ら対策が取られないまま、古河公方は自然に消滅した。

主な本拠地

武 将 (名前クリックで詳細)

足利成氏
(1438-1497)

関東を戦乱の世に導いた五代目鎌倉・初代古河公方

足利政氏
(1462-1531)

両上杉と結び北条家に対抗するが息子と対立して隠居する

足利高基
(1485-1535)

宇都宮家と協力し父・政氏を追放し古河公方を継承する

足利晴氏
(1508-1560)

4代目古河公方。幕府が正式に認め、かつ影響力を持っていた古河公方最後の当主。北条家に反抗したため、小田原に幽閉された。

足利義氏
(1541-1583)

5代目古河公方。晴氏の子。北条家の庇護のもとで成人し古河城に復帰するが、実権を持たなかった。死後、古河足利家が断絶したため、娘の氏が喜連川家を立てた。

足利藤氏
(1541-1583)

義氏の異母兄。次期、古河公方となるはずだったが、北条家の台頭によりこれは実現しなかった。以後、謙信と共に協力し北条家と対抗するが最期は北条家の捕虜となった。

足利晴直(上杉憲寛)
(1511-1551)

足利高基の子、上杉憲房の養子になり関東管領職に就くが関東享禄の内乱で破れ管領職を失う

簗田高助
(1493-1550)

古河公方・足利家の重臣。関宿城主。古河公方の内乱(永正の乱)では高基側について活躍し、宿老筆頭となり、足利晴氏に娘を嫁がせるなど、家中での地位を確固たるものにした。

簗田晴助
(1524-1594)

簗田高助の嫡男。古河公方・足利家の重臣。関宿城主。足利晴氏・藤氏の親子と共に北条家に対抗するがこれに破れた。その後居城・関宿城も北条家に攻撃され北条傘下に加わった。

参考資料(引用元)