概 要
古河足利家臣。関宿城主。簗田高助の子。北条氏康に敗れた古河公方・足利晴氏が氏康により幽閉されると、晴氏の子・藤氏を擁立し。上杉家や武田家と結んで北条家と争ったがこれに破れ北条傘下へと降った。
ポイント
- 簗田高助の嫡男
- 足利藤氏を擁立し北条家と争うが敗れ北条傘下となる
- 小田原征伐後は所領を没収される
誕生・死没
- 誕生:1524年
- 死没:1594年
- 享年:70歳
名 前
- 八郎(幼名)
- 洗心斎(号)
官位・役職
- 中務大輔、河内守
所 属
略 歴
1524年 | 0歳 | 簗田高助の嫡男として誕生 |
1546年 | 22歳 | 河越城の戦い |
1552年 | 28歳 | 足利義氏が古河公方となる |
1554年 | 30歳 | 足利晴氏が北条家に叛旗を翻す 古河城が北条家によって攻略 |
1558年 | 34歳 | 居城・関宿城と北条家の古河城を交換 |
1561年 | 37歳 | 上杉謙信の関東侵攻 謙信により古河城奪還 |
1562年 | 38歳 | 北条家により古河城が奪われる 足利藤氏が北条家に捕まる |
1565年 | 41歳 | 第一次関宿合戦 |
1567年 | 43歳 | 出家し家督を持助に譲る |
1568年 | 44歳 | 第二次関宿合戦 |
1574年 | 50歳 | 北条家によって関宿城が落城(第三次関宿合戦) 水海城(古河市)に追放 |
1582年 | 58歳 | 足利義氏が死没(古河公方の滅亡) |
1590年 | 66歳 | 小田原征伐によって北条家滅亡 水海城が豊臣家によって没収 |
1594年 | 70歳 | 死没 |
簗田氏とは
簗田氏の祖は桓武平氏流大掾氏一門の平維茂の子・良衡と言われている。「簗田」の名字は良助(良資)の代に、近江国久田郡の余呉湖付近から下野国梁田郡簗田御厨(梁田御厨)に移住したが始まりとされている。
鎌倉時代の簗田氏は簗田御厨の小領主であり、当時から足利氏家臣だったが、それほど高い地位にはなかったと考えられている。同族には南部信直に寝返って奥州斯波氏の滅亡を作ったとされる簗田詮泰がいる。
室町時代になると、鎌倉府・奉公衆となり、簗田御厨から下河辺荘(下総国葛飾郡)に移住した。
第4代鎌倉公方・足利持氏は、下河辺荘・古河を拠点として、上杉禅秀の乱鎮圧や北関東の京都扶持衆弾圧を行い、簗田氏はその前線部隊となった。さらに簗田満助の娘が足利持氏に嫁いで血縁関係を持ったこともあり、鎌倉府内での地位を向上させていっった。
誕 生
1524年、古河公方の筆頭宿老であった簗田高助の子として誕生した。
元服の年代は不明だが、4代古河公方で義兄である足利晴氏から偏諱を受け、「晴助」を名乗りその後も古河公方家の筆頭重臣として仕えた。
北条家の侵略
北条家による政治介入
主君・足利晴氏は関東管領・上杉憲政と共に北条氏康を攻めた。「河越夜戦」である。
北条家の突然の奇襲で連合軍は混乱し、上杉・古河公方の連合軍は北条家に大敗した。
河越の戦い以後、古河公方内では北条氏による政治介入が強まり、1552年には晴助の姉が生んだ晴氏の嫡男・足利藤氏が廃嫡となり、氏康の妹が生んだ子・義氏が5代古河公方となった。
関宿城と古河城
古河公方を手中に治めた北条氏康は次に、晴助の居城・関宿城の攻略にでた。関宿は通行税収入や、北関東への連絡口でもあり北関東制圧に無くては欠かせない城であった。氏康は、義氏の古河城と晴助の関宿城の居城交換を提案した。氏康からの軍事的圧力に屈した晴助はこれを受け入れた。
上杉謙信の関東進出
1561年、上杉謙信が足利藤氏救援のため関東に侵攻すると、関東の情勢は一転する。謙信は晴助に自軍への参加を求め、景虎と晴助は同盟を結んだ。これを知った足利義氏は千葉胤富を頼って関宿城を脱出し、空城となった関宿城には晴助が戻り、古河城には景虎によって古河公方に擁立された足利藤氏が入った。しかし、武田家が越後に侵攻し、謙信はこれに備えるため越後に帰還すると、北条家は反撃を開始、1562年には古河城が落とされ、足利藤氏は捕えられた。
関宿合戦
第一次関宿合戦
1565年、北条氏康は太田氏資と共に関宿城を攻めた。晴助は巧みな伏兵でこれを撃退し、上杉謙信と常陸国の佐竹義重が晴助救援のために出兵すると北条軍は撤退した。
第二次関宿合戦
1568年、氏康は次男・北条氏照に命じて再び関宿城を攻撃させた。氏照の攻撃の前に関宿城は落城間近かと思われたが、1569年には武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して駿河侵攻を行うと、氏康は上杉謙信との越相同盟を計画、信玄はさらに西上野衆に北武蔵の北条領国への侵攻を行わせたことにより、氏照は関宿から撤退した(第二次関宿合戦)。
その後、晴助は武田家との同盟を終結させ、足利藤氏の弟・足利藤政を擁立し古河公方を継承させようとするが、北条家と武田家が和解し、甲相同盟を復活させた。これにより晴助は北条・武田・上杉の3氏全てと敵対してしまった。
第三次関宿合戦
1574年、北条氏照が再び関宿城を攻撃した。晴助は上杉謙信や佐竹義重と和解をし援軍を求めたが、共同作戦が取れずに有効な関宿救援策は打ち出せなかった。戦いは一年近くに及んび、ついに北条軍の総攻撃が開始された。晴助らは奮戦するが、異母弟である簗田助縄や兵糧・弾薬が底を突いたため、佐竹義重の仲介で遂に関宿城を北条軍に明け渡すことになった。足利藤政は晴助親子の助命と引き換えに自害して(異説あり)、晴氏は支城の水海城へと追放された(第三次関宿合戦)。
この戦いの後、結果的に足利藤政を見殺しにした上杉・佐竹両氏に対する晴助親子の不信感は高まり、特に持助は足利義氏との和睦に応じて義氏の許に出仕することとなり、下総進出を図る佐竹氏と争うことになった。
晩 年
1582年、足利義氏が病死して古河公方家が事実上滅亡すると、北条氏照が古河城を管理するようになり、関宿城は先の戦いで晴助親子を裏切った簗田助縄に与えられることになった。
1590年になると豊臣秀吉の小田原征伐が始まった。晴助は単独で降伏を申し出たが秀吉は北条側に味方したという見解をしめし水海城を没収した。
ところが、晴助の戦いぶりを高く評価した浅野長政の計らいによって、孫の貞助が関東の新領主となった徳川家康に仕える事が許されて1,000石を与えられる事になったのである。
晴助はその後1594年に死没した。