概 要
古河公方・足利家の重臣。関宿城主。古河公方の内乱(永正の乱)では高基側について活躍し、宿老筆頭となり、足利晴氏に娘を嫁がせるなど、家中での地位を確固たるものにした。
ポイント
- 簗田政助の嫡男
- 永正の乱で高基に味方し活躍
- 足利晴氏に娘を嫁がせ、家中の筆頭宿老となる
誕生・死没
- 誕生:1541年
- 死没:1583年
- 享年:43歳
名 前
- 八郎(幼名)
- 富春斎(号)
官位・役職
- 中務大輔、河内守佐
所 属
親 族
父 | : | 簗田政助 |
養父 | : | 簗田成助(伯父) |
母 | : | 真里谷信勝の娘 |
正室 | : | 赤井照氏娘 |
兄弟 | : | 高助 、基良 |
子 | : | 足利晴氏正室 、 晴助 、 氏朝 |
助縄(助綱) 、 助清 | ||
一色直朝の室 、 多賀谷修理亮室 |
略 歴
1493年 | 0歳 | 簗田政助の嫡男として誕生 |
1510年 | 17歳 | 永正の乱勃発(父と対立) |
1518年 | 25歳 | 永正の乱が終結 |
1535年 | 42歳 | 娘を足利晴氏に嫁がせる |
1539年 | 46歳 | 北条氏綱と盟約を結ぶ |
1546年 | 53歳 | 河越夜戦で大敗する |
1550年 | 57歳 | 死 没 |
簗田氏とは
簗田氏の祖は桓武平氏流大掾氏一門の平維茂の子・良衡と言われている。「簗田」の名字は良助(良資)の代に、近江国久田郡の余呉湖付近から下野国梁田郡簗田御厨(梁田御厨)に移住したが始まりとされている。
鎌倉時代の簗田氏は簗田御厨の小領主であり、当時から足利氏家臣だったが、それほど高い地位にはなかったと考えられている。同族には南部信直に寝返って奥州斯波氏の滅亡を作ったとされる簗田詮泰がいる。
室町時代になると、鎌倉府・奉公衆となり、簗田御厨から下河辺荘(下総国葛飾郡)に移住した。
第4代鎌倉公方・足利持氏は、下河辺荘・古河を拠点として、上杉禅秀の乱鎮圧や北関東の京都扶持衆弾圧を行い、簗田氏はその前線部隊となった。さらに簗田満助の娘が足利持氏に嫁いで血縁関係を持ったこともあり、鎌倉府内での地位を向上させていっった。
誕 生
1493年、古河公方の重臣であった、簗田政助の嫡男として誕生した。
家中での地位確立
偏諱
元服した高助は第3代古河公方・足利高基から偏諱を受け、「高助」と名乗り、高基の側近として仕えた。
永正の乱
1510年、主君・高基が家督を巡って父・足利政氏と対立する「永正の乱」が勃発した。高助は高基側についたが、父・政助は政氏側についたため、親子は対立することになる。
1518年、「永正の乱」は高基が政氏を出家さえ隠居させることで収束した、この戦いで高助は大活躍したが、敵対した父・父・政助からは絶縁させられたため、伯父・成助が養子とし、その家督を継ぐ形で簗田氏の当主となった。
家中での地位確立
「永正の乱」での活躍から宿老筆頭となった高助は家臣団の再編成を行い、また1535年には高基の跡を継いだ足利晴氏に娘を嫁がせるなど、での地位を確固たるものにしていく。北条家との同盟
1540年頃になってくると「永正の乱」で混乱した関東の隙を突いて北条氏綱が台頭してきた。また、古河公方は高基の弟である小弓公方・足利義明の反乱や上杉氏の圧迫を受けて、周囲を敵に囲まれていた。
危機感を抱いた高助は氏綱の娘(芳春院)を晴氏の側室に迎えて、北条家と手を結び古河公方家の勢力巻き返しを図ることにした。この縁談を実現させた高助は1539年には氏綱と1543年には氏綱の後を継いだ北条氏康と盟約を結んだ。