ポイント
- 長尾景信の子で白井長尾氏5代当主
- 主家・山内上杉家に対して反乱を起こす
- 古河公方、北条家と手を結び山内上杉家を苦しめる
- 乱鎮圧後は今川家へ亡命
- 早雲より「武略・知略に優れた勇士」と賞賛された
誕生・死没
- 誕生:1443年
- 死没:1514年
- 享年:72歳
名 前
- 孫四郎(通称)、四郎左衛門尉(通称)
- 其有斎伊玄(号)
官位・幕職
- 左衛門尉
所 属
- 山内上杉 家
- 白井長尾家
同年代の人物
- 宇都宮明綱、小笠原長朝、吉川国経、波多野清秀、佐竹義治、上杉房実
略 歴
1443年 | 0歳 | 長尾景信の嫡男として誕生 |
1455年 | 12歳 | 享徳の乱が勃発 足利成氏と戦う |
1473年 | 30歳 | 父・景信が死没 白井長尾家を継ぐ※関東管領の家宰の地位は継承できなかった |
1475年 | 32歳 | 主君・上杉顕定に対して謀反を起こす(長尾景春の乱) |
1477年 | 34歳 | 五十子の戦いにて上杉顕定・定正軍に勝利、顕定が上野国へ逃亡 太田道灌が挙兵し次々と景春の支配城を攻め落とす |
1478年 | 35歳 | 古河公方・足利成氏と関東管領・上杉顕定が和睦 |
1480年 | 37歳 | 太田道灌に景春最後の拠点日野城[4]を道灌に攻め落とされる 武蔵国へ逃亡 |
1486年 | 43歳 | 出家し「其有斎伊玄」と号す 太田道灌が上杉定正によって暗殺される(長享の乱勃発) 景春は扇谷上杉家当主・上杉定正に加担して相模に入り上杉顕定と戦う |
1494年 | 51歳 | 足利成氏と上杉顕定が和睦 上杉顕定と和睦しようとする嫡男・景英と対立 |
1505年 | 62歳 | 扇谷上杉氏が降伏し長享の乱が終結 行き場を失った景春は顕定に降伏する |
1509年 | 66歳 | 上杉顕定が越後国守護代・長尾為景を討つために越後に出兵 北条早雲と同盟し再び津久井山にて謀反を起こが扇谷上杉家の軍に敗れる。 |
1509年 | 66歳 | 上杉顕定が越後国守護代・長尾為景を討つために越後に出兵 北条早雲と同盟し再び津久井山にて謀反を起こが扇谷上杉家の軍に敗れる。 |
1511年 | 68歳 | 山内上杉家の白井城を攻撃するが撃退され甲斐国へ逃亡 |
1512年 | 69歳 | 駿河の今川家へ亡命する |
1514年 | 72歳 | 死 没 |
概 要
山内上杉家臣。白井長尾氏5代当主。「武略・智略・力量、人に勝れた勇士」と評された。父の死後、叔父・忠景が山内上杉家の家宰となったことを不満として古河公方・足利成氏と結び反乱を起こす。のち扇谷上杉家の家宰・太田道灌と関東各地で戦い撃破された。道灌の死後、今度は北条早雲と結び山内上杉家に対抗するがこれも失敗に終わり駿河の今川家へ亡命ご死亡する。
誕生と享徳の乱
1443年、白井長尾氏の長尾景信の子として生まれる。
白井長尾家は、祖父の代から山内上杉家の家宰を務めた名家で、景春も山内上杉家の家臣として1455年からの「享徳の乱」で古河公方・足利成氏と戦い、1471年に父と共に成氏の古河城攻めにも参戦している。嘉吉3年(1443年)、白井長尾氏の長尾景信の子として生まれる。白井長尾家は、祖父の景仲が山内上杉家の家宰を務めてから筆頭家老となり、父も家宰として勢力を伸ばした。景春も山内上杉家の家臣として享徳3年(1455年)からの享徳の乱で古河公方・足利成氏と戦い、文明3年(1471年)に父と共に成氏の古河城攻めにも参戦している。
反乱の決め手
1473年、享徳の乱の最中に父・景信が五十子の陣にて帯陣中に死去した、景春は白井長尾家を継ぐが、父・景信が就任していた山内上杉家当主・上杉顕定の家宰の地位は叔父で総社長尾氏当主の長尾忠景が継ぐこととなった。
山内上杉家の家宰職は鎌倉(足利)長尾氏当主が継承し、適任者がいない場合には総社・白井両家の最年長が選ばれていた、今回であれば忠景で当然の決定であったが、景春は祖父及び父の功労で当然家宰になれると考えていたため、この決定を下した主君・顕定対して不満・憎悪を抱くようになり反乱を決意した。
また、一説にはこの人事によってこれまで景仲・景信に従って所領を与えられた武士の中には忠景が当主になることで所領を忠景の配下に奪われるのではという不安が高まり、こうした煽りを受け景春は反乱を決意したとする説もある。
長尾景春の乱
序 盤
1475年景春は、武蔵国鉢形城に立て籠もり、足利成氏と手を結び反乱を起こした。手始めに顕定軍を五十子陣において打ち破り、顕定の勢力を上野国にまで放逐することに成功した(五十子の戦い)。
また、上杉氏と敵対する豊島泰経・豊島泰明・千葉孝胤・那須明資・成田正等らもこれに呼応し景春派の勢力は相模国から下総国に至る関東一円に戦線を拡大し、両上杉家を窮地に立たせた。
中 盤
窮地に追い込まれた両上杉軍だが、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が兵を動かし景春を攻め込み、長尾景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)と小磯城(神奈川県大磯町)を速攻で攻略、さらに、武蔵国の豊島家を没落させた。景春も勇戦したが、道灌との「用土原の戦い」で破れ本拠地・鉢形城まで追い込まれたしまう。このときは、足利成氏の支援を受け何とか一命を取り留めた。
v>中 盤
景春はその後も足利成氏の支援を受け道灌と戦い続けた。しかし、1478年、道灌の策略で長年対立していた上杉氏と成氏の間で和議が成立すると景春は後ろ盾を失い、結果として道灌に攻められて鉢形城は落城し、秩父の山岳地帯の逃れるが、1480年、最後の拠点である日野城を道灌に攻め落とされ、「長尾景春の乱」はここに終わりを告げた。景春はその後武蔵を追われ古河公方・足利成氏の下に逃れた。
長享の乱
足利成氏に仕えた景春は成氏から「左衛門尉」の官途名を与えられて奏者(奏事伝達を務める者)を務めながら再起をうかがっていたが、やがて道灌が暗殺され「長享の乱」が勃発すると景春は扇谷上杉家当主・上杉定正に加担して相模に入り顕定と戦った。また、この頃に出家して「其有斎伊玄」と号した。
1494年に定正と結んでいた成氏が顕定と和睦すると、あくまでも顕定と戦おうとする景春と成氏の意向に従って顕定と和睦しようとする嫡男・景英が対立、最終的には成氏に従った景英は帰参を許されて顕定から白井長尾家の当主に取り立てられ、景春は当主の座を追われると共に親子で敵味方に分かれて戦うことになった。
扇谷上杉氏が降伏して長享の乱が終結すると、行くあてを失った景春はやむなく顕定に降伏した。
最後の反乱
1509年、主君・顕定が景春の同族で越後国守護代・長尾為景を討つために越後に出兵すると、これを好機と捉えた景春は為景や相模で自立していた伊勢宗瑞(北条早雲)と同盟を結び、1510年6月7日に相模の津久井山にて挙兵(反乱)する。7月に入ると景春は顕定に味方する扇谷上杉家の軍に敗れて津久井山から撤退するものの、直後に顕定が越後で戦死したとの報せが入り、白井城奪還の機とみた景春は8月には上野へと兵を移動する。その頃、白井城では顕定の養子・憲房が敗軍をまとめていたが、景春はこれを攻めて白井城奪還を図った。
だが、既に白井長尾氏の当主となっていた景英や現地の一揆・浪人衆らは憲房側についたために最終的には白井城を追われた。
最 期
『勝山記』(富士山北麓地域の年代記)によれば1511年、最後の反乱で敗れた景春は甲斐国都留郡へ逃れており、都留郡の国衆・上野原加藤氏を頼ったとも考えられている。
景春は都留郡から再度関東への復帰を図るがこれも失敗に終わり、1512年には駿河国の今川氏の下で亡命生活を送っている。
その後、1514年8月24日、72歳で死没した。