ポイント
- 扇谷上杉家家宰・太田資清の嫡男
- 主家の勢力を拡大し、江戸城・河越城・岩槻城を築城
- 主君・扇谷上杉定正に暗殺される
官職・役職
- 官位:正五位下備中守
- 幕府:武蔵守護代
略 歴
1432年 | 0歳 | 太田資清の子として誕生 | 1446年 | 14歳 | 元 服 | 1454頃 | 22歳 | 上杉憲忠が足利成氏に暗殺される(享徳の乱) | 1455年 | 24歳 | 家督を継承 | 1457年 | 25歳 | 河越城、岩槻城、江戸城が完成 | 1466年 | 36歳 | 五十子陣が勃発 | 1467年 | 37歳 | 応仁の乱が勃発 | 1473年 | 42歳 | 上杉定正が扇谷家当主となる | 1476年 | 45歳 | 駿河に出兵(今川家内乱に介入) | 1477年 | 46歳 | 長尾景春の乱が勃発 景春派の豊島泰経・泰明兄弟を江古田・沼袋原の戦いで撃破し、そのまま石神井城を攻略 |
1478年 | 47歳 | 千葉孝胤を境根原合戦で破る 甥の太田資忠を房総半島に出兵させ、景春派を一掃する |
1480年 | 49歳 | 景春派最後の拠点・日野城を攻略 | 1482年 | 51歳 | 古河公方と上杉家の和睦 | 1486年 | 56歳 | 上杉定正により暗殺される |
概 要
1432年、扇谷上杉家の家宰・太田資清の嫡子として誕生。江戸城や河越城を築城した他に長尾景春の乱を鎮圧するなど活躍するが、その実力を恐れた上杉顕定の謀略により、主君・定正に殺された。
少年期
1432年、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の嫡子として生まれた。幼名は鶴千代。
『永享記』(永享の乱・結城合戦からその後の東国情勢を描いた軍記物)などによると道灌は鎌倉五山(一説によれば建長寺)で学問を修め、足利学校(栃木県足利市)でも学んだとされている。
その後1446年に元服し、資長を名乗った。
古河公方側との防衛拠点の築城
享徳の乱の最中の1455年(享徳4年)父・道真(法名)から家督を譲られた道灌は、古河公方側と戦う防御拠点のため、1456~7年に河越・岩槻城の築城を行った。(完成は1457年)これは主家である扇谷家当主・上杉持朝の命であった。
江戸城築城
1457年、古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川下流域(江戸氏の領地)武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した。
『新編武蔵風土記稿』(江戸時代の地誌)では、道灌が霊夢の告げによって江戸の地に城を築いたとある。
また、『関八州古戦録』(江戸時代の軍記物)には品川沖を航行していた道灌の舟に九城(このしろ)という魚が踊り入り、これを吉兆と喜び江戸に城を築くことを思い立ったとされている。
しかし、これらの話は弱体化していた江戸氏を退去させるための口実という説がある。
上杉定正の擁立
古河公方側が五十子の陣を強襲すると、道灌の主君であった扇谷上杉・上杉政真は討ち死にしてしまう。
若い政真には子がおらず、道灌ら老臣が協議して政真の叔父にあたる上杉定正を扇谷家当主に迎えた。
道灌は定正を補佐し、古河公方・足利成氏に対抗し文武両面で活躍した。