ポイント
- 長尾景仲の次男で総社長尾氏5代当主
- 兄・景信の死後、関東管領の家宰をつとめ、長尾景春からの反感を買う
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1501年
- 享年:不明
名 前
- 孫六左衛門(通称)
官位・幕職
- 修理亮、尾張守
所 属
- 山内上杉 家
- 総社長尾氏
略 歴
文安年間 | 0歳 | 文安年間(1444年-1448年)には総社長尾家を継承していた |
1473年 | ?歳 | 兄・景信が死去 山内上杉家の家宰を継ぐ |
1477年 | ?歳 | 五十子城が落城し上野国へにげる |
1486年 | ?歳 | 長享の乱勃発 |
1501年 | ?歳 | 死 去 |
概 要
長尾景仲の次男。山内上杉家の家宰(筆頭家臣)。総社長尾氏の養子となり5代当主となる。上野国・武蔵国守護代。兄・景信が五十子陣において陣没すると、代わりに山内上杉家の家宰となり、甥の長尾景春と争う。
総社長尾氏家督相続
白井長尾氏3代当主、長尾景仲の次男として誕生する。
1444年-1448年の間には総社長尾氏・長尾忠政の養子となり同家の家督を継ぎ武蔵守護代など、山内上杉家の要職を務めた。
長尾景春の乱
1473年に主君・山内上杉家の家宰を務めた白井上杉家・景信が死去すると、白井長尾家の力を恐れた主君・上杉顕定は景信の子である景春を登用せず忠景を家宰としたため、景春は反乱を起こした(長尾景春の乱)。
忠景は顕定方の将として甥の景春の反乱の鎮圧に転戦するも、「五十子の戦い」(埼玉県本庄市)で敗北し上野に逃れるなど苦戦を強いられた。
やがて、この反乱は扇谷上杉家・家宰の太田道灌の活躍により鎮圧された。
その後
1486年、太田道灌が上杉定正によって暗殺され「長享の乱」が勃発すると、それまで協調してきた主家の山内上杉家と扇谷上杉家が対立関係となり忠景の本拠である上野においては長野氏ら上州一揆の国人勢力が台頭するなど晩年まで戦いの人生を送った。1501年に没した。
鎌倉にある雲頂庵は、忠景が再興したとされている。