概 要
三河の豪族。水野忠政の次男。今川派から織田派に方向転換し知多半島を制圧する。姉川の戦いや長島一向一揆討伐、長篠の戦いに参陣して活躍するが、信長の武将・佐久間信盛の讒言により徳川家康により殺害される。
ポイント
- 三河の豪族・水野忠政の次男で水野家の当主
- 織田家の協力を得て知多半島を制圧する
- 武田家の内通を疑われ徳川家康により殺害される
誕生・死没
- 誕生:?年
- 死没:1576年
- 享年:?歳
名 前
- 忠次(初名)
- 藤史郎、藤七郎(通称)
所 属
親 族
父 | : | 水野忠政 |
正室 | : | 松平信定の娘 |
兄弟 | : | 近守 、 信元 、 於丈の方 、信近 |
忠守 、 於大の方(松平広忠の正室) | ||
妙春尼(石川清兼の生室)、女(水野豊信室) 、近信 、忠勝 、 藤助 | ||
屋鍋(中山勝時室)、女(水野忠守室) 、 忠分、忠重 | ||
子 | : | 十郎三郎、茂尾、土井利勝? |
養子 | : | 信政(元茂)(弟・信近の子) |
略 歴
1543年 | ?歳 | 父・忠政が死去し水野家の家督を継ぐ 知多郡宮津城主の新海淳尚を攻める |
1546年 | ?歳 | 松平広忠の配下の上野城主酒井忠尚を離反させる |
1547年 | ?歳 | 人質として今川家へ向かう途中の竹千代(徳川家康)を強奪し織田方に引き渡す※今川方から織田方へ転じる |
1553年 | ?歳 | 沓掛城が今川方に奪われる |
1554年 | ?歳 | 重原城が今川方に攻略される 今川軍により刈谷城を包囲される(村木砦の戦い) |
1555年 | ?歳 | 奥平貞勝を織田陣営に寝返らせる(三河忩劇) |
1558年 | ?歳 | 松平氏の軍と戦う(石ヶ瀬の戦い) |
1560年 | ?歳 | 桶狭間の戦い |
1562年 | ?歳 | 清洲同盟の仲介役となる 弟の水野忠重と従兄弟の水野清久が家康の下に転じる |
1563年 | ?歳 | 三河一向一揆に家康の援軍として参陣 幕府直臣の地位を得た |
1567年 | ?歳 | 家督を養子の水野信政に譲る。 |
1568年 | ?歳 | 信長の上洛に従軍する |
1570年 | ?歳 | 姉川の戦いにおいて佐和山城を攻撃する |
1572年 | ?歳 | 三方ヶ原の戦いに参陣 |
1574年 | ?歳 | 長島一向一揆討伐の際には「しのはせ攻衆」に加わる |
1575年 | ?歳 | 長篠の戦いに参加 |
1576年 | ?歳 | 武田家との内通を疑いで、信長の命を受けた家康によって殺害さる |
水野家の家督相続
信元の生年は分かっていない。
1543年には父・忠政が死去したため、水野家の家督を継ぎ尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した。
また、家督を継いだときの水野氏は、宗家の小河(緒川)水野氏の他、刈谷(刈屋)水野氏、大高水野氏、常滑水野氏などの諸家に分かれていた。
父・忠政は松平氏とともに今川氏についていたが、信元は知多半島への勢力拡大を狙い、松平広忠に嫁いだ信元の妹の於大の方が離縁させ、家督を受け継いだ当初より尾張国の織田氏へ外交方針を方向転換した。
知多半島統一戦争
★ 知多半島進行
信元は、織田信秀の三河侵攻に協力するとともに、自らは知多半島の征服に乗り出し、松平広忠に離縁された妹の於大の方を、阿久居(知多郡)の久松俊勝に嫁がせた。
★ 知多半島制圧
1543年、信元は知多郡宮津城主の新海淳尚、榎本了円(榎本了圓)らを攻め滅ぼし。さらに知多郡長尾城主の岩田安広を包囲し降伏させた。
勢いにのる信元は分流である常滑水野氏3代目の水野守隆には娘を嫁がせ、半島横断路を制圧。勢いにのる信元は知多半島の豪族と婚姻を結び知多半島の最大勢力となった。
1547年には、岡崎の松平氏から駿河国の今川義元のもとへ人質として送られる松平竹千代(後の徳川家康)を強奪した戸田康光が今川家に滅ぼされたため最終的には知多半島の覇者となった。
今川家との戦い
★ 信長の初陣は水野氏への援軍
信元の協力を得たことで織田信秀は、三河に侵攻する。中でも織田信長の初陣とされ1547年の吉良・大浜へ出陣は、同地が水野氏の領土であることから、水野氏への援軍であったと考えられている。
★ 今川家傘下へ
1549年、今川氏に安祥城を奪回されると情勢は織田氏に不利となる。この頃、今川軍が刈谷城を一時的占拠したことがあり、程なく織田信秀と今川義元の和睦が成立した際に水野氏は今川氏の傘下に入ることとされたとみられる。
★ 織田方に復帰
1551年、信秀は流行病により末森城で急死し、信長が当主になるが、織田家は内紛に突入する。
1552年、織田方であった鳴海城主・山口教継父子が今川義元の傘下に入り、その策略で大高城、沓掛城も今川方に奪われ、知多半島西側の寺本城主花井氏も今川方に転じた。
しかし、一方で、大給松平家が織田方に離反するなど、信長による巻き返しが活発化し、この頃に信元も織田方に復帰したとみられている。
★ 村木砦の戦い
1554年、重原城も今川方に攻略され、緒川城は、寺本城・藪城・重原城に囲まれ孤立。信元の居城・刈谷城も包囲した。
この状況に信元は、信長に救援を依頼した。これに応えた信長は居城の守りを斎藤道三からの援軍に任せるという思い切った策で援軍に駆けつけると、信元と協力して今川家が築いた村木砦を攻略し(村木砦の戦い)、これ以降、水野氏の織田家へ従属性は強まった。さらに信元は奥平貞勝を織田陣営に寝返らせるなど功績を残し、織田陣営は勢力を盛り返えした。
★ 桶狭間の戦い
1560年、桶狭間の戦いが勃発。この戦いの最中、信元がどこにいたか不明。ただ戦場となった桶狭間は水野家の領地であり、一番首の手柄を取ったのは、水野清久(水野清重の息子)であるため何らかの事はしていたと考えられる。
桶狭間合戦の勝利後、信元は大高城にいた今川方の松平元康(のちの徳川家康)を落ち延びさせてやり、大高城に一門の水野元氏(高木清秀の舅)を入れる。しかし、今川方の岡部元信が反撃に転じて、刈谷城を攻略し信元の弟・水野信近は戦死した。 信元はただちに、信近の首級と刈谷城を取り戻す。この結果、緒川の信元が刈谷領を領することになった。
また、信元は重原城も信元が奪取した。すぐに松平元康が重原城に攻め寄せるも、これを撃退した。
清州同盟
1562年、信長と家康が清洲同盟を結ぶ際に、信元はその仲介役となった。また、信元は家康が三河を平定した後も家康の相談に乗るなど強い影響力を持っていた。
1563年、家康が、三河一向一揆に苦戦すると、信元は家康に援軍している。
戦 歴
★ 家督を譲る
実子に先立たれていた信元は家督を養子の水野信政(水野信近の子)に譲る。1568年には、信長の上洛に従軍。その際に信長とは別に朝廷に対して2千疋の献金を行った
★ 三方ヶ原の戦い
1570年の姉川の戦いにおいて佐和山城を攻落した。1572年の三方ヶ原の戦いに援軍として参陣した。信元は篭城戦を主張し野戦にこだわる家康と対立したが、結果として野戦で敗走し疲労した家康に代わり指揮。夜の浜松城に松明をたき鉄砲隊を配し、武田軍を威嚇をして窮地を脱している。
★ 長島一向一揆と長篠の戦い
1574年の長島一向一揆討伐の際には「しのはせ攻衆」に加わっていた。
1575年5月21日の長篠の戦いに参加。当時の信元の石高は24万石と称される。
水野家の滅亡
★ 死 去
1576年1月、信長の武将・佐久間信盛の讒言により武田勝頼の武将の秋山信友との内通や兵糧を輸送した疑いで、信長の命を受けた徳川家康によって殺害され、同時に養子の信政も斬られた。
客役を命じられた平岩親吉は、信元を斬ったのち屍を抱き上げ「信元どのに私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに詫びたという。また、案内役をしていた久松俊勝は「かかる事とも知らずして、信元迎え来て打たせたりし事の無慙さよ。世の人のかえり聞かん事も恥ずかしとて、徳川殿を深く怨み、仲違いこそしたりけれ」と述べて、出奔してしまう。
一説によるとこの事件が後の家康嫡男・松平信康とその母・築山殿や石川数正の出奔の原因と考える人もいる。
後に信長は、信元が冤罪だったとして、家康の下にいた信元の末弟・忠重を呼び寄せて、旧領を与え水野家を再興させた。
★ 信元殺害の原因
『松平記』が記す信元殺害の原因は、秋山信友が攻略した美濃国岩村城を信長が囲城した際、水野領から食料の調達に応じる者があり、これを聞いた佐久間信盛が信長に対して、信元の内通を訴えたのが原因とされている。