水野忠政の長男、父より早くに死亡した連歌に長けた教養人

水野 近守みずの ちかもり

概 要

三河の豪族。水野忠政の長男とされているが、史料により記述に矛盾が生じているため詳細ははっきりしていない。

 ポイント

  • 三河の豪族・水野忠政の長男
  • 父・忠政より早くに死亡した
  • 連歌に通じた教養人

誕生・死没

  • 誕生:?年
  • 死没:1556年
  • 享年:?歳

名 前

  • 藤九郎(通称)

所 属

親 族

水野忠政
兄弟 近守信元 於丈の方信近
   忠守於大の方松平広忠の正室)
   妙春尼(石川清兼の生室)、女(水野豊信室) 、近信 、忠勝 、 藤助
   屋鍋(中山勝時室)、女(水野忠守室) 、 忠分忠重
 子 水野守忠

略 歴


1517年 ?歳  刈谷城の守備を任せられる
1556年 ?歳  死 去

生い出ちの謎

『寛政重修諸家譜』では、水野忠政(徳川家康の外祖父)の長男で、父より早く没したとされるが、信元の死亡は1556年とされていて、忠政は1543年に没しており、記述が矛盾する。
『士林泝洄』では、常滑水野家の水野為則の次男とされている。
『刈谷市史』では、為則の次男で忠政の叔父にあたり、刈谷に分家したとする。
子に守忠という者がいて、守忠の養子に忠政の子・信近が入ったという。

連歌名人

連歌師宗長とは仲がよく、宗長が刈谷に来訪した際に近守を訪ねたりしており、連歌に通じた教養人であったとされている。しかし、その他の具体的な行動については不明である。