松平家5代目当主。戦国大名・松平家の基礎を築いた

松平 長親まつだいら ながちか

大樹寺内にある松平八代墓の親忠の墓

概 要

松平親忠の三男。松平家5代当主。連歌などの教養に長けたほか武勇にも優れ今川軍の攻撃を何度も耐え松平氏の基礎を築いた。

 ポイント

  • 松平長親の三男で松平家5代目当主
  • 今川軍の攻撃を何度も耐えた
  • 連歌などの教養にも秀でていた
  • 松平家の基礎を築いた

誕生・死没

  • 誕生:1473年
  • 死没:1544年
  • 享年:72歳

名 前

  • 竹千代(幼名)
  • 道閲(入道名)

官 位・役 職

  • 官位:従五位下、蔵人丞、出雲守

所 属

親 族

松平親忠
閑照院殿(鈴木重勝の娘)
正室 月空浄雲大姉(松平近宗の娘)
兄弟 親長乗元長親 、 親房
張忠 、 存牛 、 親光 、 長家 、 乗清
信忠親盛信定
   義春利長

略 歴


1473年 0歳  松平親忠の三男として誕生
1496年 26歳  父の隠居に伴い家督を継ぐ
今川家からの攻撃が激化
1508年 34歳  伊勢宗瑞(後の北条早雲)率いる今川軍を撃退するが松平宗家岩津松平家が滅亡
家督を嫡男・信忠に譲り隠居
1544年 72歳  死没

誕 生

☆ 松平家の分家である安城松平家の嫡男として誕生

 1473年、松平家の分家である安城松平家当主・松平親忠の三男として誕生する。
1496年、父・親忠が隠居したのを機に安祥松平家第二代となった。

安祥松平家が勢力を拡大し、宗家化する

★ 今川軍による攻撃により宗家岩津松平家が衰退、長親の安祥松平家が勢力を拡大し、松平宗家化していった

 長親が当主を継いだ当時、松平氏と駿河の今川氏は敵対同士であった。今川氏は松平氏の討伐を考えていたとされている。
1508年、今川家当主・今川氏親伊勢宗瑞(後の北条早雲)を名代とし松平家宗家の居城である岩津城を攻めさせた(永正三河の乱)。長親の活躍もあって松平勢はこれを撃退し北条早雲は止むをえず駿河へ撤退した。(※1異説あり)
 しかし、これらの混乱のなか松平宗家である岩津松平家は衰退し、長親の安祥松平家が勢力を拡大し、松平宗家化していった。
また、長親はこの年に隠居し家督を嫡男・信忠に譲っている。

※1 今川軍の主要攻撃目標は岩津松平家であったため、岩津落城を果たしたのを契機に宗瑞は兵を引いたのだとも考えられている。

隠居後と後継者問題

★ 力量乏しかった信忠に代わり清康が家督を継承する

 隠居した長親だったが、その後も嫡男・信忠を後見・補佐したが、信忠は力量乏しく一門衆・家臣団からの信頼を失っていた。そのため、家老・酒井忠尚(将監)の願いにより、信忠の隠居と信忠の嫡子・清康への家督継承を行った。

★ 清康も志半ばで死去、その後は四男・信定を溺愛する余り家臣からの信頼を失う

 長親は晩年も松平家内で影響力を持ち、息子達を分家に輩出させた。
その中でも桜井家の信定を偏愛する余り、清康の死後に若くして後を継いだ広忠が信定によって岡崎城から追われた際にも何ら手を打たなかった。このため家臣団からは失望されたという。

 しかし、その後は広忠と和解、生まれてきた広忠の嫡男(後の徳川家康)に自分や清康と同じ竹千代と命名するように命じた。