概 要
徳川家康の四男として誕生。東条松平家当主・松平家忠の死後、東条松平家の家督を継ぎで三河東条城1万石を領した。
武蔵忍城を経て尾張国および美濃国に52万石を与えられ、清州城に入り尾張清州藩主となる。
ポイント
- 徳川家康の四男。松平家忠の養子となり東条松平家の家督を継ぐ
- 家康が関東へ関東へ移封されると、武蔵忍城主となる
- 関ケ原合戦で活躍し尾張国および美濃国に52万石を与えられ、清州城に入る
誕生・死没
- 誕生:1580年
- 死没:1607年
- 享年:28歳
同年生まれの武将
名 前
- 福松丸(幼名)
- 忠康(初名)
- 尾張左中将(尊称)
所 属
親 族
実父 | : | 徳川家康 |
実母 | : | 西郷局 |
養父 | : | 松平家忠 |
養母 | : | 阿茶局(曇光院) |
妻 | : | 政子(清泉院、井伊直政の娘) | 兄弟 | : | 信康(長男) 、亀姫(長女) 、督姫(次女) |
結城秀康(次男) 、秀忠(三男)、忠吉(四男) | ||
振姫(三女) 、武田信吉(五男) 、松平忠輝(六男) | ||
松平松千代(七男) 、平岩仙千代(八男) | ||
徳川義直(九男)(尾張)、徳川頼宣(十男)(紀伊) | ||
徳川頼房(十一男)(水戸) 、 松姫(四女) 、市姫(五女) | ||
養子 | : | 松平家治 、松平忠政、松平忠明 |
: | 小松姫(本多忠勝の娘) 、満天姫、栄姫 | |
: | 阿姫 、連姫、振姫 | |
: | 久松院 、浄明院、流光院 | |
子 | : | 梅貞大童子 |
略 歴
1580年 | 0歳 | 徳川家康の四男として誕生 |
1581年 | 1歳 | 東条松平家の家督を継ぐ |
1582年 | 2歳 | 駿河沼津4万石に転封 |
1590年 | 10歳 | 小田原征伐 家康が関東に転封 |
1591年 | 11歳 | 武蔵忍城主となる 名を忠吉と改める |
1600年 | 20歳 | 関ケ原の戦いで初陣を飾る |
1605年 | 24歳 | 従三位左近衛中将に任官する |
1606年 | 25歳 | 薩摩守に転任 |
1607年 | 26歳 | 病死 |
東条松平家とは?
☆ 元は吉良家であったが松平義春(家康の曾祖父の弟)が跡目を継ぎ東条松平家を樹立
東条松平家の元は東条城主・吉良家のことで、吉良家5代目当主・吉良義藤が応仁の乱の際に、同族である吉良義真(西条吉良家)に敗れ出奔したため松平義春が跡目(後見人とも)を継いで東条松平家と名乗った。
ちなみに義藤には嫡男・吉良持清がいたが幼少だっため、義春が継いだ。
しかし、この事実を伝える史料は少なく信憑性にかけるが、東条松平家は、松平宗家に忠義を尽くし今川氏に服属していたとされている。
誕生と東条松平家の家督相続
☆ 家康の四男として誕生した後に、東条松平家の家督を継ぐ
1580年、徳川家康の四男として誕生する。1581年、東条松平家第3代当主の松平家忠が病死すると、その家督を継いで三河東条城1万石を領し、祖父・広忠と父・家康の一字をそれぞれ拝領して名を「松平忠康」とした。
また、翌年には駿河沼津城4万石に転封した。
関東転封
☆ 家康が関東へ転封されると忠吉も武蔵忍城主となる
1590年の小田原征伐後、秀吉の命によって家康が関東へ移封されると、忠吉も家康から武蔵国に10万石を与えられ武蔵忍城主となった。またこの頃に、元服して名を「忠吉」と改めた。
関ケ原の戦い
☆ 家康より先に西に進軍を開始する
1600年、忠吉は会津征伐ために関東を北上して小山に到着。小山軍議が行われる前に家康よりも先に東海道駿河国に進んだ。当初は駿府城の城番であった、直政の進言により家康より前に大垣方面に進んだ。<>
☆ 開戦すると島津豊久を討ち取るなどの戦功をあげる
関ケ原の戦いが開戦すると、舅の井伊直政の後見の下、初陣を飾って福島正則と先陣を争い、手傷を負うも島津豊久を討ち取るなどの功を挙げる。
☆ 戦後の恩賞
戦後、兄・秀忠と共に参内して従四位下・侍従に任じられる。また論功行賞として尾張国および美濃国に52万石を与えられ、清州城に入り清州藩の礎を築いた。
晩 年
☆ 従三位左近衛中将に任官
1604年には、下間仲孝に能楽の秘伝を学んでいる。しかしこの頃に病に侵され、但馬の温泉で治療している記録がある。
1605年には従三位左近衛中将にも任官するも、その後、腫物を患い一時、危篤状態に陥いったが投薬により蘇生する。
☆ 病 死
1606年には知多郡で湯治を行ったが病は治らず、1607年に江戸へ下向し、家康・秀忠と面会した数日後の3月5日に死去、享年28であった。
法号は性高院殿憲瑩玄伯大居士。小笠原吉光ら4人が殉死した。
☆ その後の清州藩
忠吉には嗣子がなく、清洲藩は弟の徳川義直が継いだ。
このため尾張徳川家の什宝を収蔵する徳川美術館には、忠吉の武具も収蔵されている。また、同母兄の秀忠はその死を非常に悲しんだといわれている。
人 物
☆ 人望が熱い美男子
忠吉について『武野燭談』の中では、器量を備えた美男子で人望も厚く、天下の諸侯が忠吉のためには命も惜しくないとこぞってかしずいたという記載がある。
<5>☆ 纏纏(旗型の馬印)として「直鋒」と描かれた大四半旗を用いており、また甲冑は純白の「銀箔置白糸威具足」を着用した[7]。この甲冑は岳父である井伊直政が着用する総朱の甲冑と好対照を成しており、纏の文字や実際の関ヶ原合戦での活躍から、井伊家と同じく徳川家の先鋒を任せられていた。