ポイント
- 千葉家19代当主
- 享徳の乱では足利成氏を支援する
- 千葉家宗家を攻め滅亡させる
- 千葉家宗家の家督を継ぐ(下総千葉家)
誕生・死没
- 誕生:1374年
- 死没:1456年
- 享年:56歳
官職・役職
- 官位: 陸奥守
略 歴
1374年… | 千葉満胤の嫡男として生まれる【千葉大系図】 |
1455年… | 享徳の乱で多古城・島城にたてこもる胤直父子や円城寺尚任を攻め滅ぼす | 1456年… | 幕府より覇権された「東常縁」に討たれる |
享徳の乱における家中の対立
享徳の乱が勃発し足利成氏が古河公方と称しすると、下総守護であった千葉氏の元には、幕府と成氏の双方から支援の依頼が寄せられるようになる。
甥の千葉宗家当主・千葉胤直は幕府の依頼を受けて成氏討伐に乗り出すが、康胤は成氏支援を主張して対立する。
これに筆頭重臣の地位を巡る「原氏」と「円城寺氏」の対立が絡んで家中は2分される事になった。
千葉宗家の滅亡
そしてついに1455年、千葉家の重臣・原胤房が千葉胤直・胤宣父子の千葉城攻め、千田庄(現在の千葉県香取郡多古町付近)へ追いやると馬加康胤もこれに加担し、千田庄の多古城・島城にたてこもる胤直父子や円城寺尚任、援軍にかけつけた大掾頼幹(妙充、満幹の次男又は甥)を攻め滅ぼした。
幕府(上杉)の反撃と最後
千葉家の内乱に大して室町幕府将軍・足利義政はの乱を治めるため歌人で千葉氏の一族でもある美濃郡上郡篠脇城主・東常縁を派遣した。
常縁は康胤の本拠たる馬加へ攻め入り、馬加康胤は小弓、原胤房は千葉へそれぞれ逃れた。
しかし、康胤は、上総八幡(現在の千葉県市原市八幡町)の村田川で東常縁に討たれたとされる。
「幕張」の地名の由来
馬加氏の居城「馬加城」は千葉兼幕張町に所在していた。古い地図によると「幕張」は元々「馬加」と表記しており、これは「馬加氏」のマ・クワリに由来する。
馬加氏の名前の由来は諸説ああり、千葉に多くみられる頼朝伝説のひとつとして、源頼朝が幕張の地にたちよった、馬を乗り換えた(馬を加えた)ので「馬加」になった、または、天幕を張ったので「幕張」になった、などという言い伝えがある。