ポイント
- 馬加康胤の庶子として岩橋家を継ぐ
- 兄の胤持が戦死したため千葉家の家督を継ぐ
- 東常縁の攻撃を受けて佐倉に逃れる
- 佐倉に本佐倉城を築城
- 長尾景春を支援する
誕生・死没
- 誕生:1421年
- 死没:1492年
- 享年:71歳
官職・役職
- 官位:従五位下
略 歴
1421年… | 馬加康胤の庶子として生まれる。 |
1455年… | 享徳の乱で父・馬加康胤が千葉胤直親子を殺害し、千葉宗家を自称する | 1457年… | 兄・胤持が戦死したため千葉氏の家督を継ぐ |
1471年… | 上杉顕定に追われた古河公方足利成氏を庇護する |
1472年… | 足利成氏を古河に帰還させる 長尾景春の乱が勃発する 長尾景春の支援に子・千葉孝胤を派遣する |
文明年間 | 1469年-1486年に本佐倉城を築城したと伝えられている。 |
1492年 | 死 去 |
出 生
輔胤の出生には2つの説がある
まず1つ目は、第19代当主・千葉康胤(馬加康胤)の庶子であるという説である『千葉大系図』。
千葉康胤の庶子として生まれた輔胤は初めは所領のあった印旛郡印東庄岩橋村(現在の千葉県印旛郡酒々井町岩橋)より、「岩橋」氏を名乗ったとされる。
2つ目の説が、千葉氏の庶流である馬場胤依の子で、第13代当主千葉氏胤の曾孫という説だ『千学集抄』。
馬場氏は氏胤の子馬場重胤に始まる印旛郡馬場村(現在の成田市付近)を拠点とした一族で、輔胤の所領である岩橋も馬場氏の拠点の1つであったという。
実際のところ輔胤については千葉氏周辺の状況について詳細な史料が存在しないため、輔胤の実像については様々な説がある(千葉姓を名乗ったかどうか、佐倉城への移転の時期がいつか等)。
千葉家の家督相続(通説)
1455年、享徳の乱が勃発し、父・馬加康胤が当時の千葉氏の正統である千葉胤直父子を殺害し、自ら千葉氏当主を僭称したが、幕府に追討される立場となる。
1457年、父の康胤と兄の千葉胤持(第20代当主)が戦死したため、輔胤がその後を継いで当主となる。ところが同年、東常縁の攻撃を受けて居城(千葉城)から追われ、佐倉に逃れ、そこを拠点とした。
足利成氏の保護
1471年上杉顕定が古河御所を占拠し、足利成氏を追い出すと、輔胤は成氏を保護し本佐倉城に匿ったといわれている。(翌年には結城氏広、那須資実や弟の雪下殿尊敒の支援により成氏を古河に帰還させた。)
長尾景春の乱
1478年、長尾景春が主家・上杉家に武蔵鉢形城に拠って反旗を翻すと、輔胤は長尾景春を支援し子・子の千葉孝胤を派遣して、上杉氏に反抗する景春を助けた。(しかし、境根原合戦の戦いで太田道灌に敗れる)
本佐倉山城と最 後
、享徳の乱に乗じ千葉氏宗家を攻め滅ぼした原胤房が、東常縁に追われ逐電した後、文明年間(1469年 - 1486年)に本佐倉城(現在の酒々井町本佐倉)を築城したと伝えられている。その後1492年に死去した。
異 説(千葉氏非当主説)
実際に前説にも述べたように輔胤が千葉家を継いだかどうかは定かではない。
子の孝胤の代に重臣団の後押しを受けて千葉氏当主を自称して以降、輔胤の系統が下総千葉氏の当主となるが、輔胤自身は岩橋姓のままであったとも言われている。