関東戦乱時代の幕明けになった争い

【享徳の乱】

 基 本 情 報

  • 交戦勢力 : 幕 府 V S 鎌倉公方

  • 期 間 : 1454年 ‐ 1483年

  • 場 所 :関 東 地 方

  • きっかけ : 鎌倉公方の反乱

  • 結 果 : 和 睦

幕府

VS

鎌倉公方

関東管領上杉
堀越公方
今川氏
越後上杉家
成田氏
ほか

参加勢力

結城家
宇都宮家
里見家
小山氏
武田氏
ほか

足利政知
渋川義鏡
上杉教朝
上杉房顕
上杉顕定
長尾景仲
上杉持朝
上杉房定
太田道灌
今川範忠
千葉自胤
武田信昌
ほか

主な武将

足利成氏
結城成朝
結城氏広
多賀谷氏家
簗田持助
小山持政
宇都宮正綱
里見義実
小田朝久
那須資持
長尾景春
成田正等
ほか

主な合戦

1455年
分倍河原の戦い

武蔵国 - 東京都府中市
享徳の乱のきっかけとなった戦

1459年
太田庄の戦い

武蔵国 -埼玉県熊谷市
上杉の主力が多く戦死した合戦

1473年
五十子の戦い

武蔵国 -埼玉県本庄市五十子
長尾景春が顕定を恨んで成氏方に寝返って挙兵した戦

1477年
江古田・沼袋原の戦い

武蔵国 -東京都中野区
太田道灌の足軽軍法が発揮した豊島泰経との戦

1478年
境根原合戦

下総国 - 千葉県柏市
太田道灌が千葉氏の内乱を制圧した戦

解説の前に

・鎌倉府とは…

室町幕府が関東10カ国と陸奥2カ国を統治するために設置した機関である。

・鎌倉公方とは…

鎌倉府の長官。鎌倉公方は足利尊氏(初代室町幕府将軍)の息子・基氏を初代とし代々その子孫が世襲してきた。それを補佐する関東管領は上杉氏が世襲した。

・関東管領とは…

鎌倉公方を補佐する役職。代々山内上杉氏が世襲した。鎌倉公方とは関係がよろしくなかった。

永享の乱…

鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立。
室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた戦いである。
結果は上杉家の勝利に終わり。足利持氏は自害した。その後足利持氏の子・成氏が鎌倉公方を継ぐ。

 大乱のきっかけ

永享の乱により鎌倉公方の継承を許された足利成氏が関東管領職・上杉憲忠を自宅で暗殺した事が原因とされる。
暗殺の動機
  • ・父を殺された恨み
     (永享の乱の際に上杉憲忠の親に父(持氏)を殺されている)
  • ・鎌倉府における権力争い

 最初の戦・分倍河原の戦い

足利成氏が上杉家の本拠地上野国を攻めるために北上、扇谷上杉軍は山内上杉家と協力し南下し武蔵府中の「部倍河原」で激突!

成氏(鎌倉府)が大勝し北上するが、本拠地の「鎌倉」を幕府の命により進軍してきた今川軍に占拠され、帰参を断念し古河城を本拠地とし古河公方と名乗る。

この影響により各地で戦乱が起こり、関東地方は利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となる。

鎌倉公方の足利成氏は上杉憲忠を暗殺した勢いそのままに山内上杉氏の上野国に攻め込もうとする。
一方幕府側は扇谷上杉・持朝が成氏の居ない鎌倉を攻めるが鎌倉公方側の武田信長によって拒まれ、その子顕房が山内上杉家の家臣長尾景仲と協力して武蔵府中まで進軍してきた足利成氏を部倍河原で迎え撃つがこれに敗れ自害する。

山内上杉を撃破した成氏は宇都宮等綱を降すなど各地を転戦していた。しかし、その隙に室町幕府は今川範忠らに成氏討伐を命令し、今川軍が鎌倉に駐留する武田信長をやぶり鎌倉を占拠すした。
帰る場所を無くした成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総古河に入った。以後成氏は古河城を本拠地とし古河公方と呼ばれた。

この戦乱は各地に波紋を呼び、下総の豪族「千葉氏」では成氏に通じた分家の馬加康胤と重臣の原胤房が挙兵して本家の千葉胤直・胤宣父子を倒して家督を奪っている。

堀越公方の誕生

室町幕府将軍・義政は成氏への対抗策とし異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。しかし、混乱中の鎌倉に入ることが出来ず、伊豆の堀越に入り、堀越公方と称した。

1458年、将軍義政は成氏への対抗策として、前年に還俗させた異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。
政知には山内上杉家の他、渋川義鏡・上杉教朝などが配下として付けられていたが、実権は全て幕府に握られており、関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができなかった。そのため、鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆の堀越に入り、堀越公方と称した。

 上杉軍の反撃

太田庄の戦いで病に倒れた上杉房定等、劣勢の上杉軍だったが、上野での綱取原合戦で上杉軍が勝利すると徐々に上杉軍が攻勢にでた。

1459年太田庄の戦いにおいて上杉軍が大敗すると、以後、両陣営は付近の五十子陣を挟んで長期にわたって睨み合った(五十子の戦い)。関東管領・房顕は寛正7年(1466年)に五十子で病に倒れて陣没。これに対して幕府は上杉房定(越後守護)の子・上杉顕定を房顕の養子として後を継がせるように命じ上杉顕定が関東管領職を世襲した。
だが、1461年に岩松持国・次郎父子が従兄の岩松家純に謀殺され、1465年には長尾景人が房顕の推挙を受けて幕府から足利氏発祥の地・下野足利庄の代官職に補任され、翌年秋に景人は同庄勧農城に入部して下野に上杉方の拠点を築いた。

1468年、上野で綱取原合戦が勃発、上杉軍が勝利して、1469年に成氏についた持国の次男成兼が上杉方の家純に追放され、岩松氏を家純が統一する等、徐々に上杉側は反撃に打って出た。

1471年、成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻し、政知は三島で敗退した。顕定ら上杉方は成氏方の主力が伊豆に出陣している留守を狙い、古河に出陣。小山持政を離反させて下野国内の諸城を降した。だが、翌年には成氏も古河城を奪還して勢力の巻き返しに出た。 この間、成氏は幕府主導の改元に従わず、享徳の年号を使い続けた。

 長尾景春の乱

1473年五十子陣で山内家家宰の長尾景信(白井長尾家)が死去しすると、上杉顕定(関東管領)は家宰職(執事)を忠信(景信の弟)に跡を継がせる。
これに反発した景春(景信の子)が主家に反旗を翻し上杉家の陣を落としてしまう。

五十子陣で山内家家宰の長尾景信(白井長尾家)が死去した。白井長尾家の家督は子の景春が継いだが、家宰職(家務職とも)は当主上杉顕定が景春の叔父で惣社長尾家の長尾忠景に与えた。家宰職は陪臣ながら関東管領の補佐役とあって関東では大きな権力となっていた。

長尾氏は白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、鎌倉長尾家(後の足利長尾家)に別れ、持ち回りで家宰職を務めていた。
しかし、本来は長尾氏の嫡流である鎌倉長尾家とそれに次ぐ犬懸長尾氏から輩出され、両家が当主の不在や幼少などで適任者を欠く場合に白井・惣社両長尾家の長老から選ばれる仕組みであったと考えられている。だが、上杉憲忠殺害事件の時に鎌倉家当主長尾実景とその息子で犬懸家を継いでいた憲景がともに殺害された影響で、家宰職が景春の祖父景仲、景信と2代続けて白井家から出る事になった(景仲次男であり、景信の弟である忠景は対抗馬になり得ない)。この論理で行くと、次期家宰職の最有力者は足利長尾家(鎌倉長尾家が足利荘に移転した)の長尾景人であったが、景信の死の前年に若くして没し、後を継いだ息子の定景や犬懸家当主である景人の弟房清は家宰職を務めるには余りにも若かった。そのため、一族の長老となり、景仲よりも以前に家宰を務めていた養父の長尾忠政の没後に武蔵守護代など家中の要職を務めてきた忠景が家宰職になる事はこれまでの選出方法から考えれば不自然な人事ではなかった。その一方で2代続けて家宰職を出した白井家の力が強くなりすぎることを嫌った上杉顕定は家宰職を景春ではなく忠景に与えたという側面もあった。

 享徳の乱の終結

景春の反旗のおかげで有利になったと思われた成氏だがその後、扇谷上杉家の家臣・太田道灌により成氏側の拠点が次々に落とされる、形勢が不利になった足利成氏は関東管領側(上杉顕定)と和議を結びその数年後には幕府とも和議を結びここに「享徳の乱」は終結した。

扇谷上杉家の家臣・太田道灌により鉢形城や小沢城を攻略し武蔵と相模を固めた。
危機感を抱いた成氏は1478年、両上杉氏と和睦を成立させた。そしてなお反抗をつづける千葉孝胤を境根原合戦で破った。
1479年、成氏は幕府とも和議を申し出、1483年1月6日に至り、ようやく幕府と成氏との和睦が成立した(都鄙合体)。これによって成氏が引き続き関東を統治する一方で、伊豆の支配権については政知に譲ることになった。
成氏による反幕府的行動は停止されたが、配下の諸将を多く持つ古河の成氏と、幕府公認の公方として権限を持ちながら関東に入れない堀越の政知の2人の公方が並存する状態は依然として続くこととなった。