ポイント
- 千葉家の執権
- 円城寺尚任(千葉家執権)と関係悪い
- 享徳の乱で足利成氏を支援する
- 千葉宗家の千葉城急襲する
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1471年
- 享年:不 明
官職・役職
- 官位:越前守又は越後守
親 族
- 父 : 原胤親
- 子 : 原胤隆
- 子 : 原胤継
略 歴
1455年… | 享徳の乱が勃発 足利成氏を支援し千葉宗家の居城を千葉城を急襲し千葉宗家を滅亡させる 室町幕府奉公衆の東常縁に敗れ逃亡 |
1456年… | 馬加康胤が東常縁に敗れ戦死 |
1479年… | 上杉氏に小弓城を攻められ戦死する |
原氏とは?
源氏の嫡流(九州千葉氏の嫡流ともいわれる)
平常長の四男四郎頼常が、下総国香取郡千田庄原郷(現在の千葉県香取郡多古町原)を領して「原」を氏としたのにはじまるという。
円城寺尚任(千葉家執権)との対立
円城寺尚任とともに千葉氏の執権であったが、両氏ともに千田庄・八幡庄内に所領を有していて領有をめぐり対立していた。
千葉城急襲(享徳の乱)
1454年の享徳の乱の際、当主千葉胤宣と円城寺尚任は上杉氏に、胤房は成氏についたため対立が激化し、胤房は千葉城を襲い、康正元年8月12日(1455年9月23日)に胤宣と尚任を馬加康胤の加担を得て殺害、3日後の15日に胤宣の父胤直を、9月7日に胤直の弟胤賢も討ち千葉氏宗家を攻め滅ぼしたが、11月24日に胤賢の遺児千葉実胤・自胤兄弟を擁立した千葉氏庶流で室町幕府奉公衆の東常縁に敗れ逃亡、馬加康胤も翌康正2年(1456年)に常縁に討ち取られたとされる。
最 後
文明3年9月9日(1471年10月22日)に小弓城が上杉氏に攻められた際に戦死した「原越前入道」は受領名との一致などから胤房の事であるとされている。また、これを別人として文明11年(1479年)に91歳の長寿で没したとする説もある。