ポイント
- 千葉家16代当主
- 享徳の乱では上杉側につく
- 叔父の馬加康胤に攻撃され自害する
- 千葉宗家最後の当主
誕生・死没
- 誕生:1419年
- 死没:1455年
- 享年:36歳
官職・役職
- 官位: 従五位下
親 族
- 父 : 千葉兼胤
- 母 : 上杉禅秀の娘
- 兄弟 : 千葉胤賢
- 子 : 千葉胤将
- 子 : 千葉胤宣
略 歴
1419年… | 千葉兼胤の嫡男として誕生 |
1428年… | 高野山を参詣して蓮花三昧院と師檀の契約を結ぶ |
1430年… | 兼胤が死去し家督を継ぐ |
1438年… | 永享の乱では鎌倉軍に属すが、後に上杉側に属す |
1439年… | 上杉持朝(扇谷上杉家)と共に足利持氏を討ち取る |
1441年… | 家督を胤将に譲り上杉憲実(山内上杉家)と共に出家する |
1455年… | 享徳の乱では、上杉軍に付く 足利成氏側の叔父・馬加康胤と重臣の原胤房の連合軍に攻撃され自害する |
永享の乱
1438年、鎌倉公方・足利持氏が関東管領・上杉憲実討伐を計画(永享の乱)すると、胤直は鎌倉公方側に付く。しかし、武蔵高安寺にて足利幕府軍の出動を知った胤直は持氏に憲実との和議を主張するが、これに異義を唱える簗田満助らと口論に及び。持氏が満助の説を選んだために胤直は軍をはなれ下総市河に移る。その後憲実に属して持氏を攻め、翌年上杉持朝と共に鎌倉永安寺に幽閉されていた持氏を討ち取った。直後の結城合戦でも幕府軍に属して結城城を攻めた。
その後は、1441年に憲実と共に出家して家督を嫡男の胤将に譲った。
享徳の乱
足利幕府により鎌倉府再興が承認されると足利持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方として復帰すると胤直は胤将と共にこれを支えるが、1454年に胤将が急死したために幼い次男の胤宣が千葉氏を継ぐ事になり、胤直が後見を行うことになった。
しかし、足利成氏が再び上杉氏討伐(享徳の乱)を企てたために胤直は足利成氏から離反して上杉氏と共に成氏を攻撃する。これに対して翌康正元年(1455年)に8代将軍足利義政から胤直・胤賢父子に対して賊である成氏に組せず、幕府に忠節を尽くしている事を賞する御内書が出されている。
千葉家宗家の最後
享徳の乱も上杉側として戦い親上杉派として存在をしめしていた胤直だが、それに不満をもっており、足利成氏側に加わった叔父の馬加康胤と重臣の原胤房の連合軍に攻撃されてしまう。胤直・胤宣父子は千田庄多胡に逃れて防戦したが、同年8月12日に胤宣が自刃し、胤直も3日後の15日に自刃して果てた。また、援軍にかけつけた常陸国の大掾頼幹(妙充)もこの時に自害している。これにより、家督は康胤に奪われ、千葉氏宗家は滅亡した。