ポイント
- 伊達晴宗の十男
- 国分家を継ぐ
- 出奔し佐竹家の家臣となる
官職・役職
- 官位:従五位下信濃守、従四位下
略 歴
1553年 | 1歳 | 伊達晴宗の5男として生まれる | 1577年 | 25歳 | 国分家へ養子として送り込まれる | 1585年 | 33歳 | 人取橋の戦いで活躍 | 1587年 | 35歳 | 家中で内乱が勃発 政宗が国分家を攻め国分領が伊達領になる |
1592年 | 40歳 | 伊達姓に復帰する | 1596年 | 44歳 | 伊達家を出奔し佐竹家家臣となる | 1602年 | 50歳 | 横手城主となる | 1614年 | 62歳 | 大阪冬の陣で戦功をあげる | 1615年 | 63歳 | 死 没 |
概 要
伊達晴宗の十男。兄・輝宗の命で国分氏のもとに代官として遣わされ、後に国分氏を継いだ。その後、国分領は伊達家の直轄領になり盛重も伊達家臣となり人取橋の戦いなどで奮戦するが処遇に不満(異説あり)を持ち、出奔して佐竹家家臣になった。
佐竹氏の転封に従って秋田に移り、横手城を与えられた
出生と国分家相続
1553年、伊達晴宗の5男として生まれる。兄に伊達輝宗がいる
1577年、兄・輝宗の命により陸奥国宮城郡の国分氏の後継者として送り込まれた。政重が国分氏の当主になった事情ははっきりしないが国分盛氏が跡継ぎ無くして死去したため、家臣の堀江掃部らが伊達氏からの当主を迎えるよう運動し、政重が跡を継いだとする説が有力である
しかし、政重の国分氏入りは順調なものではなく、家中の反発は強かったようだと伝えられている。
国分相続後
政重の下で国分氏は伊達氏に従属した。
また国分氏はかつて留守氏と戦いを繰り返したが、留守氏にも政重の兄・留守政景が養子に入ったため、両氏の戦いは止んだ。
国分政重は、1585年の人取橋の戦いに参加し、主力の一部として政宗の本陣がある観音堂山の麓に展開し、攻め寄せてきた佐竹・蘆名連合軍と戦った。
伊達家へ取り込まれる
1587年のころ堀江長門守らが反抗の動きを見せ、国分家内で内乱が勃発する。
政重は家中の反発を抑えきれず、。伊達政宗は家臣の伊東重信を派遣し、意見聴取にあたらせた。一度は内乱は収まったが、再び乱が再発、政宗は、国分の騒乱は政重の政治がよくないせいだと考え、国分を攻め滅ぼそうとした軍を進攻させた
政重は国分から退き、米沢に参上して政宗に謝罪した。それでも国分家は静まらなかったが、国分攻めは取り止めになった。
その代償に政重は国分領に帰ることなく、これ以後国分氏の家臣は政宗直轄とされ、「国分衆」と呼ばれるようになった。
佐竹氏への出奔と晩年
盛重は、1596年(または1599年)に伊達家を出奔した。(原因動機は不明だが、処遇に不満を抱いていたと思われる)
盛重は甥の佐竹義宣(妹の嫁ぎ先)のもとに走り、その家臣になった。佐竹家中では侍大将として遇され一族の席を与えられ、島崎城を与えられた。この頃盛重は三河守を称した。
1602年、佐竹氏の転封に従って秋田に移り、1000石と横手城を与えられて秋田伊達氏の祖となった。
1614年の大坂冬の陣では、今福の戦いで奮戦したとされている。
そして翌年1615年7月15日、死去した。