ポイント
- 伊達晴宗の三男
- 留守家に養子にはいる
- 関が原合戦では伊達家の総大将を務める
官職・役職
- 官位: 従五位下上野介
1549年 | 1歳 | 伊達晴宗の三男として誕生 | 1592年 | 44歳 | 文禄の役で朝鮮へ出兵する 伊達家の一門へ復帰する |
1600年 | 52歳 | 関が原の合戦で伊達軍総大将を務め上杉軍と交戦する |
1604年 | 56歳 | 一関2万石を与えられる |
1607年 | 59歳 | 死 没 |
留守家18代当主。伊達晴宗の三男。父・伊達晴宗の政略により、留守顕宗の娘を娶り家督を継ぐ。兄・輝宗や甥・政宗に従い、相馬家や最上家などと戦った。のちに伊達姓に復し、関が原の戦いでは伊達軍の総大将を務める。
1549年、伊達晴宗の三男として誕生。
1567年、父・晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族・留守氏を継ぐことになる。この養子により晴宗と対立していた留守家を乗っ取る事に成功し、留守顕宗の実子は神楯城主・高城周防守の養子として送り出さた。
留守家を継いだ政景は、村岡氏や余目氏の反抗を鎮圧すると共に、兄・輝宗や甥・政宗を補佐し、各地を転戦し実家の伊達氏の勢力拡大に貢献した。
また、岳父・黒川晴氏が伊達家を裏切った際にはその許しを政宗から得ている。
しかし、小田原征伐に参陣しなかったため一度所領を没収されている。
1600年の関ヶ原の戦いでは、政宗の命により伊達軍総大将として、上杉景勝の攻撃を受けていた最上義光の援護に向かい、小白川に着陣し、撤退する上杉軍を率いた直江兼続と交戦。
伊達政宗の書状によると伊達勢で80~100の首級を取り、一門でもある大條実頼が負傷するほどの激戦であったという。
晴氏は智勇兼備の将として名高く、伊達氏の傘下にあって活躍したが、伊達政宗が家督を継ぐと、政宗は父・輝宗の外交方針と逆の外交を行い、上杉景勝と結んだために最上義光と対立を深めた。黒川氏は最上氏の分家にあたため、伊達家との関係が微妙な関係になった。
関が原合戦後には「伊達」姓への復帰が認められ(養子に出された者が実家に復姓することは名誉な事であった)1604年に一関2万石を与えられた。
さらに甥の伊達成実が出奔した際には伊達家に戻したりしている。
1607年に死去。享年59であった。
菩提寺は岩手県奥州市水沢の大安寺。同寺には4人の殉死者と共に描かれた、極めて珍しい肖像画が残る。