伊達氏16代当主、周辺大名との抗争に明け暮れ最後は壮絶な死を迎える

伊達 輝宗 だ て  てるむね

伊達輝宗

伊達輝宗 肖像画

ポイント

  • 伊達家16代当主で政宗の父
  • 父・晴宗との争いに勝利し家督を継ぐ
  • 畠山氏に拉致され「自分もろとも畠山を討てと」壮絶な最後を遂げた

誕生・死没

  • 誕生:1544年
  • 死没:1585年
  • 享年:42歳

名 前

  • 彦太郎(幼名)
  • 総次郎(幼名)

所 属

官職・役職

  • 官位:従四位下、左京大夫

同じ年の武将

  • 跡部昌忠、渡辺政綱、伊達輝宗、妻木貞徳、土屋重信、山口直友、山田有信、山田辰業、山田宗昌、山名棟豊、山上宗二、相馬整胤、瀬名信輝、相良義陽、児玉就英、小林重直、相良頼貞、品川将員、初鹿野信昌 原長頼、原田親種、延沢満延、沼田麝香、片岡直季、川田景盛、長野業盛、中村元勝、中山親綱、 中山田泰吉、大河内正綱、小笠原信元、小貫頼久、海野幸貞、徳山則秀、外山正成、伊集院久信

親 族

伊達晴宗
久保姫(岩城重隆の娘)
正室: 義姫最上義守の娘)
兄弟 岩城親隆、阿南姫、輝宗
鏡清院(伊達実元の正室)、益穂姫(小梁川盛宗室)
留守政景石川昭光彦姫
宝寿院、国分盛重、杉目直宗

略 歴

1544年 0歳   伊達晴宗の次男として誕生する
1548年 4歳   天分の乱が終結
米沢城に移る
1555年 11歳   元服
足利義輝から偏諱を賜り「輝宗」と名乗る
1565年 21歳  父・晴宗が隠居し家督を継ぐ
1566年 22歳  蘆名盛氏に娘を嫁がせる
1567年 23歳  最上義守の娘「義姫」を娶る
伊達政宗が誕生する
1570年 26歳   中野親子を追放する(家中の実権を握る)
1575年 31歳   織田信長に鷹を送る
1578年 34歳   上杉家の内乱「御館の乱」に介入する
1579年 35歳   田村氏に娘・愛姫を嫁がせる
1581年 37歳   新発田重家の反乱を支援
1583年 39歳   相馬家から丸森城の奪還に成功
1584年 40歳   相馬家の金山城を攻略
 家督を政宗に譲り隠居する
1585年 41歳  二本松城主・二本松義継を攻撃するが拉致され戦死する。

概 要

父・晴宗との対立や周辺大名との抗争等を抱え、ながら多難な戦国時代を生きた戦国大名。温厚な性格でその最後は自らを犠牲にした非業な終わりだった。

生い立ち

1544年9月、伊達晴宗の次男として伊達郡西山城に生まれる。母は岩城重隆の娘「久保姫」、幼名は「彦太郎」、後に「総次郎」と名付けられた。
長兄・親隆は岩城氏との約束どおり母方の祖父である岩城重隆の養嗣子となることが定められていた為、次男の総次郎が伊達氏の世子となる。
1548年、天文の乱は和睦して終結。父晴宗は本城を置賜郡米沢城に移し、輝宗は母(久保姫)や兄弟共々米沢城に移り住んでいた。
1555年3月19日、父の伊達晴宗がら奥州探題職に補任された日に、室町幕府13代将軍・足利義輝の偏諱を賜り輝宗と名付けられ、11歳で元服した。

家督相続

1565年、父・伊達晴宗が隠居すると、輝宗は家督を譲られ伊達氏第16代当主となる。輝宗はそのまま置賜郡米沢城に居を構えて羽越の境を守り、父・晴宗は妻の久保姫と共に信夫郡杉目城に移り住む。杉目城隠居は相馬氏や四本松の石橋氏との境を押さえる為でもあったとも言われている。

伊達家中の実権掌握

家督を継いだ輝宗でしたがm家中の実権を隠居の晴宗と天文の乱に際して家中最大の実力者となった宿老・中野宗時・牧野久仲父子に握られていた。そのため、蘆名盛氏と和睦に際しては父・晴宗の反対を押し切って妹の彦姫を盛氏の嫡男・盛興に1566年1月に嫁がせているが、その際には秘かに晴宗と輝宗が対立した際には盛氏が輝宗を支持する約束が交わされていたという。(父・晴宗との対立は宿老・中野宗時の画策との説有り)

家中の統制を図った輝宗は、1570年4月、中野宗時に謀反の意志有りとして牧野久仲の居城・小松城を攻め落とし、中野父子を追放する。この際に輝宗に非協力的であったとして、小梁川盛宗・白石宗利・宮内宗忠らが処罰されている。
同年、義姫の実家・最上家でも、義守・義光父子の間で抗争が始まると、輝宗は義守に与して義光を攻めたが、義姫が輝宗に対して撤兵を促したため兵を引いた。

輝宗政権の確立

家中の実権を掌握した輝宗は、鬼庭良直を評定役に抜擢して重用し、また、中野宗時の家来であった遠藤基信の才覚を見込んで召し抱え、外交を担当させた。この両名を中軸とする輝宗政権は、晴宗の方針を引き継いで蘆名氏との同盟関係を保つ一方で、南奥羽諸侯間の紛争を調停し次第に周辺諸国への攻勢を強めていった。
また、幅広い外交活動を展開し、1575年7月には中央の実力者である織田信長に鷹を贈ったのを始めとして、遠藤基信に命じて北条氏政・柴田勝家と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した。

御館の乱への介入

1578年に上杉謙信が没し御館の乱が勃発すると、輝宗は対相馬戦を叔父・亘理元宗に一任し、北条との同盟に基づいて蘆名盛氏と共に上杉景虎方として参戦したが、乱は上杉景勝方の勝利に終わり、蘆名・伊達軍は新発田長敦・重家兄弟の奮闘に拒まれ意味のない戦になった。
しかし、御館の乱における論功行賞において新発田勢の軍功が蔑ろにされ、さらには仲裁を図った安田顕元が自害した事によって、1581年に新発田重家が景勝に叛旗を翻すと、輝宗は盛氏の後継・蘆名盛隆と共に重家を支援し、柴田勝家とも連携して越後への介入を続けた。このため新発田の乱は泥沼化し、7年にもわたる長期戦となった。

相馬家へ対応

対相馬戦では相馬盛胤・義胤父子の戦上手さに苦しみ、戦局がなかなか好転しなかったが、1579年には田村清顕の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えて田村氏を味方につけ、相馬方の切り崩しを図り、1582年には小斎城主・佐藤為信の調略に成功すると、1583年5月17日、ついに天文の乱以降最大の懸案事項であった要衝・丸森城の奪還に成功し、翌年の1584年1月11日には金山城をも攻略した。旧領である伊具郡全域の回復が成ったことで輝宗は停戦を決め、同年5月に祖父・稙宗隠居領のうち伊具郡を伊達領、宇多郡を相馬領とすることで和平が成立し、伊達家は稙宗の頃の勢力圏11郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。

政宗へ家督を譲った経緯

輝宗が政宗に家督を譲った経緯については諸説ある。
まず1つは, 越後介入に専念するため家督を政宗に譲ったとする説だ。
1584年10月6日、蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、輝宗は生後僅か1ヶ月で当主となった蘆名盛隆の子・亀王丸の後見となる。輝宗はこれを期に政宗に伊達家の家督を譲ることを決め、修築した舘山城に移ったという説である。

2つ目は、蘆名家、伊達家からの不信感から隠居に追い込まれたという説である。
輝宗は生まれたばかりの亀王丸ではなく、盛隆の養父である蘆名盛氏の生前に養子縁組の約束を交わしたと主張して自らの次男である小次郎を蘆名家の当主に立てようとしたが、佐竹義重の反対にあって失敗に終わったために、伊達・蘆名両家家中の不信感を発生させて隠居に追い込まれたという経緯。

3つ目は伊達家と佐竹家両方で話しあって隠居した説だ。
盛隆横死後の蘆名家中の混乱を目の当たりにした輝宗が、義弟の義重と協議して自身が健在なうちに歩調を合わせて共に家督を後継者に譲ることで、当主の突然死に伴う両家の家中の混乱を未然に防止することが目的のためという事だ。つまり、輝宗が健在の時点ではまだ、義重は南奥羽に大きな影響力を有する伊達氏との敵対を望んでおらず、両者は協調関係にあったと捉えるのが自然であったろいうことだ。

いずれにせよ蘆名盛隆が暗殺され、その家督争いの過程で親伊達派が力を失って佐竹氏の影響が強まり、伊達氏と蘆名氏の同盟関係は終わりに向かっていった。

壮絶な最後

1585年春に、息子・伊達政宗は岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻れと命令した。田村氏は前年に大内氏との争いに際して輝宗より示された調停案を不服として従わず、大内氏に加勢した石川昭光・岩城常隆・伊達成実らの攻撃を受けており、大内家は伊達家に巨従していると言って定綱がこの命令を拒否すると、政宗は同年4月に大内氏に対する討伐命令を下した。(輝宗は秘かに定綱に政宗への謝罪を求めたが、定綱はこれに応じなかったとされる)
定綱は蘆名盛隆未亡人(輝宗妹・彦姫。亀王丸の母)にとりなしを求めたものの、政宗は5月に突如として大内家を支援したとして蘆名領に侵攻し(関柴合戦)、これに失敗すると定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継へ攻撃を加えた。こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった。

二本松義継は政宗に降伏を申し入れ、輝宗と伊達実元の斡旋により五ヶ村を除く領地召し上げの厳しい条件で和睦した。
1585年11月29日に義継は調停に謝意を表すべく宮森城に滞在していた輝宗を訪れたが、面会が終わり出立する義継を玄関において見送ろうとした輝宗は、義継とその家臣に刀を突きつけられ捕えられた。同席していた伊達成実と留守政景が兵を引き連れて遠巻きに追ったが、二本松領との境目にあたる阿武隈川河畔の高田原に至ったところで、輝宗が「自分ともども義継を討て」と叫び、それが合図となって伊達勢は一斉射撃を行ったという。
この銃撃で輝宗と義継を始めとする二本松勢は全員が死亡し、鷹狩中であった政宗が一報を受け現場に到着したのは既に全てが終わってからであったとしている。

教育熱心な父

嫡男・政宗の教育にはとても熱心であり、1572年に甲斐国から快川紹喜の弟子である臨済宗の虎哉宗乙禅師を招いたのを始め、多くの高名な儒学者・僧を伊達家の居城である米沢城に招き、さらに片倉景綱・屋代景頼・湯目景康ら多くの有望な若手家臣を家中から選んで、早くから政宗に仕えさせた。

輝宗の日記

戦国大名が直筆の日記を残すことは少ない、輝宗には1574年1月~12月までの日記が残されている。日常や周辺大名の情勢など多岐に渡る内容を簡潔に記している。

参考資料(引用元)