南部家26代当主、外交判断や政治力に長けた大名

南部信直なんぶのぶなお

南部信直

南部信直 肖像画

  ポイント

  • 養父・晴政に疎まれた
  • 南部家26代当主であり優れた外交能力をもっていた
  • 実父の敵である津軽為信を憎んでいた

誕生・死没

  • 誕生:1546年
  • 死没:1599年?
  • 享年:54歳

名 前

  • 幼名:亀九郎
  • 通称:田子九郎

官職・役職

  • 従四位下・大膳大夫

親 族

略 歴

1546年…南部家の22代当主・南部政康の次男である石川高信の側室の子として生まれる
1565年…南部晴政に跡継ぎが居なかったため、晴政の長女の婿となり養子婿として三戸城に迎えられた
1566年…鹿角郡に侵攻してきた安東愛季軍を撃退する。
1568年…再度進行してきた安東愛季軍を撃退する。
1570年…晴政に実子・南部晴継が誕生すると晴政に疎まれるようになる。
1571年…大浦為信に石川城を攻められ実父・石川高信が自害する。
1576年…正室(晴政の長女が)死去すると、自身も身の危険を感じ、跡継ぎの継承を辞退し、田子館に引き篭もる。(晴政・九戸VS南長義・北信愛)
1581年…晴継が死去し信直が家督を相続する。(九戸実親を推す意見もあったため南部家中は不穏な状態になる。)
1586年…斯波氏を絶滅させ、勢力拡大する。
前田利家を通じて豊臣政権との外交が始まる。
1590年…津軽へ兵を進めるが、小田原参陣のため撤退する。
豊臣秀吉の奥州仕置に参陣する。
1591年…九戸政実の乱が起きると秀吉から10万の援軍を借りてこれを鎮圧する。
蒲生氏郷が三戸城を改修する。また、秀吉から9ヵ郡10万石の大名と認められる。
1592年…朝鮮出兵に参陣するが渡海せずに翌年に帰国を許される。
1598年…豊臣秀吉が死去すると、徳川家康に接近すると同時に盛岡城の築城を開始する。

出 生

信直は第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子として岩手郡一方井城で生まれます。つもり信直にとって南部晴政は従兄弟にあたります。
1565年になると南部氏第24代当主・南部晴政に男子がなかったため、その長女の婿となり養嗣子として三戸城に迎えられます。

晴政との確執

晴政に実子が(晴継)が誕生すると晴政は養子の信直が邪魔な存在になります。ある日の事、信直が毘沙門堂に参拝を行いに行った際、晴政は自ら手勢を引き連れて信直を襲撃します。しかし、晴政は信直の鉄砲による逆襲にあい落馬したと伝えられています
信直の正室(晴政の長女)が死去すると、信直は身の危険を感じ、北信愛、八戸政栄を頼り身を隠します。これにより南部家は晴政派の九戸連合と信直を盟主とする南長義、北信愛の連合との間で対立が始まる。

家督相続

1582年晴政が死去すると家督は晴政の実子である晴継が継いだ。しかし、晴継も家督を継いですぐに天然痘を患い死去し、家督を信直が継いだとされる。(南部根元記)しかし、晴政の葬儀を終えた晴継を信直が遅い暗殺したという説もある。