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「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどの広大な領地を保有した陸奥の戦国大名
南 部
南部鶴
出 自
陸奥国(現在の青森南部)の武家。
元々は源氏の流れを汲む、甲斐国南部郷(山梨県南巨摩郡)の武家である。
概 要
24代当主南部晴政の時代には青森県全域、岩手県の3分の2を領土とし、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどであった。(三日月のとき出発して、満月になるまで歩いてもまだ南部領というくらい領土が広い)
しかし、南部家には信頼性のある資料が少なく、特に戦国時代の前半の記録は他の大名家との史実の食い違が多く信頼性に欠ける。これはや、信直による史実の捏造があったと思われる
戦国末期には津軽地方の大浦為信の挙兵や、家督争い等家中は安定していなかった。が第26代南部信直は豊臣秀吉に臣従し、「小田原征伐」、「奥州仕置き」に従軍し南部の所領の内7ヶ郡の朱印状(所領の確約)を得る。さらに翌年には「九戸政実の乱」を鎮圧した豊臣政権から失領していた津軽地方の代替地として岩手県の一部が加増され10万石の安定した基盤を得た。江戸時代からは居城を盛岡城に移し安泰を築いた。
家 紋
南部鶴
割り菱
武 将 (名前クリックで詳細)
南部安信 |
南部氏第23第当主。津軽平定を行い弟らを各地に配置し、南部家の勢力拡大を果たした。 |
南部晴政 |
南部安信の子。南部氏第24代当主。将軍・足利義晴の「晴」の一字を拝領され「晴政」と名乗る。南部氏の最盛期をもたらした戦国大名。 |
南部信直 |
南部家26代当主。石川高信の実子であり、晴政の養子になる。家督相続後は巧みな外交を屈指し戦国時代を生き抜く。 |
南部利直 |
南部信直の嫡男で南部家27代当主。前田利家を烏帽子親として元服。家督相続後は関ヶ原合戦で東軍に属し、最上家を救援した。領内の一揆を平定するなど、南部藩の基礎を築いた。 |
石川高信 |
南部安信の弟で南部晴政の叔父。南部家のNo2的な存在で南部家の津軽地方の統治を任されていた。津軽為信の謀反により殺害されたといわれている。 |
北 致愛 |
南部家臣。南部家21代目当主・信義の嫡男だが信義が死去した翌日に生まれたため南部家を継承できず、母方の北家に追いやられた。息子に北信愛がいる。 |
北 信愛 |
南部家の内政、外交を仕切った重臣。智略にも優れ「花巻城の夜討」では数十人の兵で400人の兵を撃退した。 |
八戸政栄 |
南部氏一族。晴継亡き後の家督争いでは信直擁立に尽力した。盲目の武将だったといわれている。 |
南 長義 |
南部安信の弟で南部晴政の叔父。斯波家に対抗するため、浅利城の守備を任された。 |
久慈 直治 |
久慈城城主。「九戸の乱」で九戸に加担し斬首される。 |
九戸信仲 |
南部一族の有力庶家・九戸氏の出身。右京と称す。九戸政実、九戸実親、久慈政則、中野康実、七戸家国室の父 |
九戸政実 |
信仲の子。南部氏の一族として勢力を広げる。晴政亡き後は信直と対立し、「九戸の乱」を起こしたが、豊臣秀吉に制圧され打ち首になる。 |
九戸実親 |
信仲の子。南部晴政の次女と結婚し、後継者候補となる。主家に叛旗を翻した兄・政実とともに九戸城に籠城し、豊臣軍と戦うが敗れ、斬首された。 |
中野康実 |
九戸信仲の五男。兄に九戸政実、実親がいる。斯波詮真の娘を貰い奥州斯波家に婿入りする。のちに斯波家を出奔、斯波家討伐軍の先鋒を務めた。 |
泉山古康 |
南部氏一族の政昭(石亀信房の子)の子。叔父・泉山康朝の養子として三戸郷泉山村に入った。娘・慈照院はのちに主君・信直の後室となった。 |
泉山政義 |
南部氏の家臣。泉山古康の嫡男。姉に慈照院(南部利直の生母)がいる。 |
下田直久 |
南部家臣。岩崎一揆の折り、赤母衣衆として出陣し戦功をあげる。その後、岩手郡下田村400石を領したことにより、下田氏を称す。 |
大浦為則 |
大浦城主・大浦政信の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。生来病弱であったという。のちに娘・戌の婿に大浦(津軽)為信を迎えて後継者とした。 |
柏山明助 |
柏山明宗(明吉の次男)の嫡男。主家滅亡後、南部家に仕える。岩崎城代を務め、和賀兵乱の鎮定などに活躍したが、剛勇ぶりを恐れた主君・利直によって毒殺されたとされている。 |