父・氏繁の死没後、武蔵岩付城代や玉縄城主をつとめた

北条 氏舜ほうじょう うじきよ

玉縄城

居城:玉縄城

概 要

北条氏繁の長男。氏繁の死後に家督を継ぎ、岩槻城主や玉縄城主を務めた。しかし、早死にし、その後の家督は弟の北条氏勝がつとめた。

  ポイント

  • 北条氏繁の嫡男
  • 玉縄、岩槻城主を務めた
  • 早死にしたため家督は弟・氏勝が継ぐ

誕生・死没

  • 誕生:不 明
  • 死没:1581年
  • 享年:?歳

官 位

  • 左衛門大夫

所 属

親 族

北条氏繁
七曲殿(北条氏康の娘)
  北条氏勝(弟)、北条氏成(弟) 、 千葉直胤(弟)
  北条繁広(弟) 、 (上杉氏憲室)
  娘(杉原長房室)

略 歴


1577年 ?  佐竹義重、宇都宮広綱、那須資晴と合戦
1578年 ?  父・氏繁が死没し家督を継ぐ
1581年 ?  死 没

北条家での活躍

1578年、父・氏繁が死没したため家督を継いで武蔵岩付城代を務めた、しかし、当主氏政の子・北条氏房が岩付城主となると、玉縄城主となった。

政 策

玉縄城主になると早速相模国東郡でのしかけなどで鳥を射たり、取ったりすることを法度として禁じている。これは玉縄北条家が鎌倉時代以来の行事である放生会の伝統を受け継ぐことを、支配地域に示したものと考えられている。

氏舜の死後

1581年に氏舜は早死にしたため、家督は弟の氏勝が継いだ。

最近の研究

氏舜については昔から不明な点が多く、謎だらけの人物であったが近年ようやく氏繁の死後に家督を継いだことが分かったほどで(それまでは、氏繁死後に家督を継いだのは弟の氏勝だとされてきた)。しかし、確認後も文書の残存率が低く、わずか7通しかない。また、どのように死去したのかもいまだ不明である。