北条 氏勝ほうじょう うじかつ

玉縄城

居城:玉縄城

概 要

北条氏繁の次男。兄・北条氏舜の死後、玉縄北条氏の当主の座を継承し、玉縄城主となる。1590年、小田原征伐では伊豆山中城を守備するが、ここが落城すると、玉縄城に戻り篭城した。北条家の降伏後は徳川家康に仕え、下総岩富1万石与えられ大名として存続し同地で死去した。

  ポイント

  • 北条氏繁の次男
  • 兄・北条氏舜の死後玉縄城主を務めた
  • 小田原征伐後は徳川家に仕え下総岩富1万石与えられた

誕生・死没

  • 誕生:1559年
  • 死没:1611年
  • 享年:53歳
  • 墓所:神奈川県鎌倉市植木の龍寶寺

官 位

  • 従五位下、左衛門大夫

親 族

北条氏繁
七曲殿(北条氏康の娘)
正室  蓮覚院(上田朝直の娘)
兄弟 北条氏舜(兄)、北条氏成(弟) 、 千葉直胤(弟)
  北条繁広(弟) 、 (上杉氏憲室)
  娘(杉原長房室)
北条氏明、北条繁広(養子)、北条氏重

略 歴


1559年 0歳  北条氏繁の次男として誕生
1578年 19歳  父・氏繁が死没
1581年 22歳  兄・氏舜が死没し家督を継ぐ
1582年 23歳  武田家の戸倉城攻略に参陣
「黒駒合戦」鳥居元忠・三宅康貞らの軍勢に敗れる
1584年 25歳  下野皆川城、太平山城合戦に参陣
1590年 31歳  小田原征伐では伊豆山中城を守備するの勃発
徳川家康に仕える
1590年 31歳  小田原征伐では伊豆山中城を守備するの勃発
徳川家康に仕える

玉縄北条家の相続

1559年、北条氏繁の次男として誕生した。氏勝には兄・北条氏舜が存在したため、玉縄北条家の家督を継ぐことはなかったが、1578年に父・氏繁、1581年に兄・氏舜が死没したため。1582年ごろに玉縄北条家の家督と玉縄城主となった。1583年の文書からは玉縄北条家代々の官途名である「左衛門大夫」を名乗っている。

本能寺の変後

本能寺の変が起きると北条家は空き地となった信濃や甲斐の領有を争って徳川家と対立した。
氏勝は、同族の北条氏忠と共に御坂峠に進出したが、「黒駒合戦」で家康の家臣・鳥居元忠、三宅康貞らの軍勢に敗れている。
1584年には上野厩橋城に入り、4月の下野皆川城や太平山城での合戦に出陣した。

小田原征伐

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると氏勝は伊豆山中城に籠もって戦ったが豊臣軍の猛攻の前に落城する。
落城を前に氏勝は自害を図るが家臣の朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って城を脱出、本拠である相模玉縄城へ戻り籠城する。
その後、玉縄城は家康に包囲されるが戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門とその一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により、同年4月21日に降伏した。
以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて北条方諸城の無血開城の説得に尽力した。

小田原征伐後

小田原城が落城し主家が滅亡した氏勝は、その後、家康に下総岩富1万石を与えられて家臣となり領内検地などの基盤整備を進める一方、関ヶ原の戦いなどで功績を重ね、徳川家康、秀忠から信頼を得たが1611年死去、享年53歳であった。
家督は養子の氏重(保科正直の子)が継いだ。一説には弟の繁広を嫌った重臣・堀内氏が家康の外甥にあたる氏重を養子に迎えたとも伝わる(『寛政重修諸家譜』)