ポイント
- 北条氏綱の三男
- 玉縄城主(初代玉縄北条)
- 各地で転戦し氏綱を支える
- 23歳という若さで死去
誕生・死没
- 誕生:1520年
- 死没:1542年
- 享年:23歳
官職・役職
- 官位: 従五位下 左京大夫、贈従三位
親 族
略 歴
1520年 | 1歳 | 北条氏綱の三男として誕生 |
1532年 | 12歳 | 玉縄城主となる |
天文初年 | 15歳 | 鎌倉鶴岡八幡宮の再建を行う |
1542年 | 23歳 | 死 没 |
概 要
北条氏綱の三男、叔父の北条氏時が死去すると、わずか12歳で東相模支配の要である玉縄城主を任された。
各地の合戦に一軍を率いて出陣し、北条家を支える重要な存在となったが23歳という若さで死去した。
為昌に子がなかったため、綱成が為昌の養子となる形で家督を継いだ。
玉縄北条家
1532年に叔父の北条氏時が死去すると、跡を継いで12歳という若さで玉縄城主となり7月23日には朱印状(所領を確定させる際に発行する書類)を発行している。
しかし元服前だったようで大道寺盛昌や(のちに養子となる)北条綱成などが補佐にあたっている。以後、武蔵国川越城、小机城、相模国三崎城などの城主・城代を務めた。また為昌以降の家系を玉縄北条家という。
「為昌の由来」
「為昌」の由来は北条家の重臣である大道寺盛昌、笠原信為の名前を一文字づつ拝領したものといわれている。(特に盛昌は、元服の際の烏帽子親を務め、その後も後見人として為昌を補佐している)
実はこの三者は天文初年に、鎌倉鶴岡八幡宮の造営総奉行であり、三人で鎌倉鶴岡八幡宮の再建も行っている
死 没
為昌の名は1539年頃から史料に名前が見えなくなり、この頃から病に臥していたと思われ、1542年に23歳というわかさで没した。
法名は本光院殿竜淵宗哲禅定門。