江戸城代を努め、対里見家の一翼を担った

北条 氏秀ほうじょう うじひで

玉縄城

城代を務めた江戸城跡

概 要

北条綱成の次男。当初は上野国沼田氏を継いで沼田城に在城していたが 上杉謙信に攻略されたため、江戸城に入り城代として対里見氏の一翼を担った。

  ポイント

  • 北条綱成の次男
  • 沼田氏を継ぐが上杉謙信の関東出兵によって攻略されてしまう
  • 江戸城代となり対里見家の一翼を担った。

誕生・死没

  • 誕生:不 明
  • 死没:1583年
  • 享年:73歳

名 前

  • 虎松丸(幼名)
  • 康元(初名)
  • 孫次郎(通称)

官 位

  • 治部少輔

所 属

親 族

北条綱成
大頂院(北条氏綱の娘)
兄弟 北条氏繁(兄) 、高源院殿(北条氏規室)
浄光院殿(遠山政景の兄・遠山隼人佐の正室)
乙松丸

略 歴


1558年 ?歳  沼田氏の家督を継承
1560年 ?歳  上杉謙信によって沼田城落城
1562年 ?歳  江戸城入城
1570年 ?歳  足柄に在陣
1574年 ?歳  兄・氏繁が上杉謙信迎撃のため出陣した岩付城を守る
1578年 ?歳  上杉内で御館の乱勃発
上杉景虎を救援するために越後へ出兵している
1582年 ?歳  下総関宿城に在番
死没

沼田家相続

北条綱成の次男として誕生。当初、北条氏康の偏諱を受けて「康元(やすもと)」と名乗った。綱景・氏広という署名も残っている。

1558年、上野沼田家内で内紛が勃発すると北条氏康はこれに介入。当主・沼田弥七郎を支援した。
しかし、弥七郎が父である沼田顕泰に討たれると、顕泰は越後に逃亡。空国となった沼田領に北条家が入り氏秀は上野国沼田氏を継いで沼田城に在城した。

江戸城入城

沼田城を継いだ氏秀だが、1560年に長尾景虎の関東出兵によって早々と攻略されてしまう。そのため行き場を失った氏秀は1562年江戸城に入り、翌年出奔した太田康資に代わって対里見氏の一翼を担った。

その後の活躍

その後氏秀は兄・氏繁に従い各地を転戦する。1570年12月には兄・康成とともに足柄に在陣。
1574年には名を「康元」から「氏秀」に変え、代扇谷上杉家当主が名乗ってきた「治部少輔」を称した。(詳細は不明)
また、同年には武蔵岩付城代の兄氏繁の出陣の留守を守って同城に在城している。
1578年の御館の乱では、北条家から養子に出ていた上杉景虎を救援するために越後へ出兵している。 1582年には下総関宿城に在番しているがその任務の途中に没した。