概 要
北条氏康の四男で、今川氏真に嫁ぐ予定である妹、「早川殿」がまだ幼かったため、代わりに幼少期を今川氏の人質として駿府で過ごした。この時期に同じ境遇であった徳川家康と知り合いになり、後に家康や秀吉との交渉役を任されることになる。小田原征伐では韮山城に長期間篭城。子孫は河内狭山藩主として存続する。
ポイント
- 北条綱成の四男
- 幼少期を今川家で過ごす
- 三崎水軍を支配下に置き里見家と度々争う
- 徳川家や豊臣家との交渉を担当する
- 小田原征伐では韮山城を任される
誕生・死没
- 誕生:1545年
- 死没:1600年
- 享年:56歳
- 墓所:大坂の専念寺
名 前
- 助五郎(幼名)
官 位
- 従五位下、美濃守、左馬助
所 属
略 歴
1545年 | 0歳 | 北条氏康の四男として誕生 |
幼少期 | 今川家で人質生活を送る | |
1562年 | 17歳 | 北条家に帰還 |
1567年 | 22歳 | 房総方面への軍事行動を担う |
1569年 | 24歳 | 対武田家の伊豆防衛を担う 、徳川家など西方の政治勢力との外交交渉を担当 |
1576年 | 32歳 | 左馬助を名乗る |
1577年 | 33歳 | 美濃守を名乗る 里見家と同盟を結ぶ |
1582年 | 38歳 | 天正壬午の乱(徳川攻め) |
1590年 | 46歳 | 小田原征伐 北条家滅亡 高野山へ幽閉 |
1591年 | 47歳 | 秀吉に許され河内国丹南郡2000石を賜る |
1594年 | 50歳 | 6980石に加増 |
1600年 | 56歳 | 死 没 |
今川家での人質生活
1545年、第3代当主・北条氏康の四男として生まれた。
この当時、氏康の娘「早川殿」と今川義元の嫡男「今川氏真」の縁談の約束があったが早川殿が未だ幼少であるため、今川家に輿入れすることができなかった。そのため、氏規が代わりに人質として送られたとされている。
ただし、今川家の精神的支柱であった寿桂尼(今川氏親未亡人)の実の孫であったことから、彼女が預かって養育する形が取られた。
1553年、氏真と早川殿の婚姻が行われるが、氏規はその後も駿府に滞在した。これも早川殿が未だ出産できる年齢ではなかったためとされている。
元服の時期は明確ではないが、小田原の実家ではなく駿府の今川義元の下で行われたとされている。
これは今川氏真には兄弟はなく、有力な近親者は数少なく状況にあり、氏規が駿府に滞在し続けたのは北条御一家衆としてよりも今川御一家衆としての立場が優先されたためと見られている。
またこの頃、同じく今川家で人質として養育されていた松平竹千代、のちの徳川家康と知り合い後に、両者は深い関わりになっていく。
北条家へ帰還
1562年6月から1564年6月8日の間に小田原の北条家に帰還した。
帰国後の身分としては父・氏康、兄の氏政に継ぐ地位だったとされている。その後、北条綱成から三浦郡の支配権を、三浦衆の軍事指揮権を氏康から引き継いで、三浦郡の支配拠点であった三崎城を本拠にし、房総方面への軍事行動を担うようになった。
1569年に武田家との抗争が勃発すると水軍を支配下とする氏規が伊豆防衛を担うようになり、徳川家など西方の政治勢力との外交交渉を担当するようになった。
房相同盟
1577年北条氏は房総半島の里見氏を攻略すべき出兵した。氏政が東上総方面から本軍を率いて陸路侵攻し、氏規は海路から西上総に侵攻する両面作戦を展開。氏政は上総国の武田氏を従属させ、氏規は安房里見氏の本拠佐貫城に迫り圧力をかけた。その結果、里見義弘は北条家に和睦を申し出た。これを氏政は受け入れ、次女・竜寿院が義弘の嫡子・里見義頼に嫁ぐことで同盟関係を築くことになった(房相一和)。
本能寺の変後
1582年、織田氏による武田征伐が始まった。同じく武田を攻めた北条氏も氏政、氏直が駿河方面に出陣し、氏規はこの先陣の総大将に任じられている。。
同年、本能寺の変が勃発すると、織田・徳川家と北条家の関係は悪化。その結果、氏規は伊豆から駿河に侵攻し徳川家康方の三枚橋城を攻撃したが落城させる事は出来なかった。
徳川家との交渉役
徳川家と膠着状態が続くと、織田体制の織田信雄、織田信孝双方から徳川、北条両家に対して和睦の勧告があり、氏規は交渉担当となり10月29日に和睦は成立した。この講和の際、甲斐国の新府城を本陣としていた徳川家康の下に氏規が直接出向いて交渉したとされ、二人は今川家での人質時代の旧交を温めたと伝わる。
1586年3月8日頃には、氏政と徳川家康が伊豆駿河国境で直接会談に及んだ。11日に氏規は家康を三枚橋城まで送る役を命じられ、家康は労として氏規に兵糧米1万俵を贈ったとされる。
秀吉との交渉と小田原征伐
豊臣家が天下統一目前に迫まると北条氏は従属を巡って秀吉との交渉を開始した。
氏規は北条家の当主に代わって上洛し、豊臣方と数度の交渉に当たっている。しかし、最終的に氏規の働きは報われず、1590年、「名胡桃城事件」をきっかけに豊臣家は北条家を攻撃することを決意。「小田原征伐」が始まった。
「小田原征伐」では氏規は最前線のひとつである伊豆の韮山城の守備を担当し、4万の豊臣方(総大将は織田信雄)を相手に3640余とされる寡兵で4か月以上の間抗戦するという善戦ぶりを見せたが、最終的には家康と黒田官兵衛の説得を受けて開城した。その後、小田原城も開城し北条家は滅亡した。
大名復活
小田原征伐後は、高野山に謹慎処分となった北条氏直に従って氏規も謹慎した。その後、秀吉に許され、1591年には河内国丹南郡2000石、1594年には河内国の河内郡に6980石の加増を受け、1万石以下ながら狭山城主として復活した。なお、長男・氏盛も氏直亡き後の遺領のうち4000石を継いでいる。
しかし、それから6年後の1600年2月8日、病のため死没した。享年56歳であった。墓所は大坂の専念寺にあり、法名は一睡院殿勝譽宗円大居士。氏盛による継承が認められ、それまでの領地と合わせ1万1千石となり、北条家は大名に復した。
氏規の子孫は狭山藩主として、明治維新まで存続した。
人 物
北条一族の名将
「改正三河後風土記」(近世に書かれた徳川氏創業期に関する歴史書)では、氏規を「智謀と武勇、双方の研鑽に励む北条一族の名将である」と称賛している
北条氏の窓口役
徳川家康から北条氏規宛の書状などが多数現存しており、後述の豊臣秀吉が北条氏に上洛を求めた際には、家康からの働きかけは氏規に対するものが多く、家康が氏規を北条氏の窓口役として見ていた事実が伺える
家康と家が隣?
駿府人質時代に家康も駿府で人質となっていたため、この頃から二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)、『武徳編年集成』では、家康と住居が隣同士だったとも伝えている。