伊達家と運命を共にした重臣

石母田 景頼いしもだ かげより

片倉景綱

  ポイント

  • 陸奥石母田城主
  • 政宗の小姓
  • 居城から逃亡し、伊達秀宗に仕える

誕生・死没

  • 誕生:1559年
  • 死没:1625年
  • 享年:67歳

同じ年の人物

名 前

  • 左衛門(通称)
  • 桑折景頼(晩年)

所 属

官職・役職

  • 不 明

親 族

略 歴

1559年 1歳  石母田光頼の子として誕生した
1590年 32歳  小田原征伐では二本松城の守備にあたる
1591年 33歳  伊達家の減転封に伴い伊具郡荒山城主(丸森町)となる
1592年 34歳  政宗に従い文禄の役に従軍する
1593年 35歳  嫡男・重長が桑折家を継ぐ
1600年 42歳  関が原合戦では刈田郡白石城奪還戦に従軍する。
1601年 43歳  桑折家の番代となり桑折景頼と称した
1614年 56歳  政宗に庶長子・秀宗の後見に任命される
大坂冬の陣に従軍
政宗が伊予宇和郡に領地10万石を与えられる
1615年 57歳  秀宗が伊予宇和島藩10万石に移封に伴い宇和島に入部する
1623年 65歳  宗頼に家督を譲って隠居
1625年 67歳  宇和島城にて死去

概 要

陸奥石母田城主。代々伊達家に仕えた重臣。1580年豊臣秀吉の奥州仕置きによって政宗の所領が大幅に削られた際、景頼も居城を追われた。この時多くの家臣が逃亡したという。
政宗の嫡男・秀宗が大阪冬の陣での活躍が認めれら、初代宇和島藩主となるとこれに付き添い伊予宇和島藩に入部し筆頭家老(奉行)として藩政の運営にあたった。

出 生

1559年、陸奥国伊達郡石母田城で守護代・石母田光頼の子として誕生した。伊達輝宗・政宗父子に仕え、武勇に優れ多くの戦陣に加わり戦功をたてた。
1590年の小田原征伐では二本松城の守備の任にあたった。

伊達家の減転封

政宗が葛西大崎一揆の黒幕と疑われ米沢から岩出山に減転封された際に伊達郡を没収されたため、景頼も石母田城を失い、伊具郡荒山城主となった。

人質生活

政宗に従い文禄の役に従軍する等伊達家の重臣として活躍していたが、1595年、関白豊臣秀次謀反事件に関連し政宗に疑いがかけられた際、政宗とその家臣の妻子を召し連れ京都伏見に上り、政宗の家臣19人の連判誓詞文を提出し、その後1599年まで伏見で人質生活を過ごした。

桑折家の相続

1601年、政宗の命により名家・桑折家の家督をついでいた嫡男・重長の後見役を務めていた桑折宗長は老齢のため役目を辞し、景頼が代わって重長の後見を命ぜられた。そのため景頼は石母田家の家督を養子の宗頼(養子)に譲り、自らは桑折家の番代となって、これ以降「桑折景頼」と称した。

秀宗の後見人として

1614年、「桑折家」の名跡を継いだ景頼は政宗に庶長子・秀宗の後見を命ぜられ、政宗・秀宗と共に大坂冬の陣に従軍する。
伊達家はこの活躍により将軍・徳川秀忠より伊予宇和郡に領地10万石を与えられることとなった。

1615年、秀宗が伊予宇和島藩10万石の移動が決まると、景頼は政宗から秀宗の後見職を命ぜられ、同年夏に妻と次男の宗頼、娘夫婦(沼辺重仲)ら選抜された56騎の家臣と共に宇和島に入部する。

景頼は宇和郡河後森城主となり7000石を宛がわれ、筆頭家老(奉行)として藩政の運営にあたった。
1623年に宗頼に家督を譲って隠居すし、1625年8月16日、宇和島城にて死去した。享年67。


参考資料(引用元)

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