概 要
徳川家康の長男。織田信長の娘・五徳を娶る。剛勇英邁の人となりで、将来を期待されるが、のちに信長から武田家への内通を疑われ、父・家康の命により自害した。
ポイント
- 徳川家康の長男。母は築山殿
- 信長の娘・徳姫を娶る
- 武勇才知に優れた
- 武田家との内通を疑われ父・家康の命により自害
誕生・死没
- 誕生:1559年
- 死没:1679年
- 享年:21歳
同い年の武将
名 前
- 竹千代(幼名)
- 次郎三郎(別名)、岡崎三郎(通称)
所 属
親 族
父 | : | 徳川家康 |
母 | : | 築山殿 |
正室 | : | 徳姫(織田信長の娘) |
側室 | : | 浅原昌時の娘 、日向大和守時昌の娘 |
子 | : | 登久姫(小笠原秀政正室)、妙高院(本多忠政正室)、萬千代 |
萬千代 | ||
兄 弟 | : | 信康(長男) 、亀姫(長女) 、督姫(次女) |
結城秀康(次男) 、秀忠(三男)、忠吉(四男) | ||
振姫(三女) 、武田信吉(五男) 、松平忠輝(六男) | ||
松平松千代(七男) 、平岩仙千代(八男) | ||
徳川義直(九男)(尾張)、徳川頼宣(十男)(紀伊) | ||
徳川頼房(十一男)(水戸) 、 松姫(四女) 、市姫(五女) | ||
松平家治 、松平忠政、松平忠明 | ||
小松姫(本多忠勝の娘) 、満天姫、栄姫 | ||
阿姫 、連姫、振姫 | ||
久松院 、浄明院、流光院 |
略 歴
1559年 | 0歳 | 松平元康(徳川家康)の嫡男として誕生 |
1560年 | 1歳 | 桶狭間の戦い 今川家との人質交換により岡崎城に移る |
1562年 | 3歳 | 清州同盟の成立 |
1567年 | 8歳 | 徳姫と結婚 家康より岡崎城を譲られる 元服して信康と名乗る |
1570年 | 11歳 | 岡崎城主となる |
1573年 | 14歳 | 初陣する |
1575年 | 16歳 | 長篠の戦いに参陣 |
1577年 | 18歳 | 小山城攻めに参陣 |
1579年 | 20歳 | 家康の命により自害する |
出 生
☆ 徳川家康の嫡男として誕生、幼少期は今川家の人質として過ごす
1559年3月6日、松平元康(後の徳川家康)と築山殿との間に長男(嫡男)として生まれる。
生まれてすぐに今川家の人質なるが、桶狭間の戦いの後に家康が今川家からの独立を果たすと、家康の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移った。
信長の娘「徳姫」との婚約と岡崎城主
☆ 清州同盟の成立と共に信長の娘「徳姫」と結婚する
1562年、家康と織田信長による清洲同盟が成立と、1567年には信長の娘である徳姫と結婚し、共に岡崎城で暮らした。このとき二人の年齢は9歳であった。
さらにその年、家康が浜松城に移ったため、信康は家康より岡崎城を譲られると、元服して信長より偏諱の「信」の字を与えられて『信康』と名乗った。(正式な城主となったのは1570年)
武田家との戦い
☆ 長篠の戦いをはじめ、各地の戦いで軍功を挙げる
1575年、長篠の戦いでは17歳で、徳川軍の一手の大将として参加した。その後も武田氏との戦いでいくつかの軍功を挙げた。
1577年の遠江国横須賀の戦いで退却時の殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったという大活躍をした。
最 後
☆ 三河物語によると内通の疑いをかけられたため、家康の命により切腹した(通説)
織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、やがて、信康とも不和になった。
1579年、徳姫は父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に事実かとうか確認したが、忠次はすべてを事実と認めた。そのため、信長は家康に信康の切腹を要求した。
家康はやむをえず信康と築山殿の処断を決断。はじめに築山殿が二俣城(浜松市天竜区)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害され、その約1ヶ月後、二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じ、信康はこれに従い切腹した。
☆ 近年の異説では、家康との親子不仲説が原因との新説も浮上
近年、三河物語の説(通説)に何点かの疑問が浮上している。一つ目は築山殿がいかに家康の正室といえども武田氏と裏で外交ができるような力があったのか?、二つ目は信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。それにも関わらず家康は築山殿も切腹させており、いずれも不可解である。
このような疑問から近年では家康との親子悪く、親子の対立が原因であったという説が浮上している。
『安土日記』や『当代記』では、信長は「信康を殺せ」とは言わず、徳川家の内情をくんで「家康の思い通りにせよ」と答えている。つまり家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去りたいと願望があったといことである。
また、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。
家康と信康の不仲が伺え史料はほかにも存在する。『家忠日記』によると、事件が起きる前年1578年に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されている。さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことが伺える。
また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」とあり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせる。
家康を困らせた信康の暴挙
- 気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。
- 領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張した。
- 鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した(狩の際、僧侶に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てたため)。これに対して信康は後日、謝罪している。
- 徳姫が産んだ子が二人とも女子だったので腹を立て、夫婦の仲が冷え切った。
人 物
☆ 武勇に優れた武将
信康は武勇に優れた武将であったが、一方で猛々しい部分もあった。また信康が話すのは戦のことばかり、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったという
『徳川実紀』には康の小山城攻めの際、信康は諸軍を家康とともに指揮して勝頼も驚いたという。さらに小山城攻めを諦めて撤退する際、信康は殿軍を務めてこれを成功させ、家康から「まことの勇将なり。勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」と大いに褒められた。という記載がある。
そのため、家康は後々まで信康の武勇を惜しんだという。