戦国武将達の女性観とは?戦国武将の女グセ!!
目 次
顔も見ずに結婚するのが常識
戦国時代は、同盟関係を強化するための政略結婚が主流だった。
結婚や女性関係は、武士の社会では重要な意味を持っていた。政略結婚で嫁いでくる女性は、忠節を裏付ける大事な人質でもあった、相手の武将の娘た姉妹など血縁の濃い女性を貰うことになる。
そのため恋愛結婚はほとんどなく、とくに正室の場合は顔も見ずに決めるのが普通だった。
側室になると一目惚れで結婚することもあったが、いずれにせよ女性側に選ぶ権利はなかった。
恋愛対象外の女性
弱肉強食の戦国時代は、完全な男社会であった。女性は政略のための道具、子を産むための道具であり、女性の人権はないに等しかった性欲の対象ではあっても、恋愛の対象ではなかった。
しかし、政略が絡んでいる分、妻のものわかりが良くなるわけではなかった。気が強い美人の正室に頭があがらなかった武将もいる。
子作りに熱心だった信長
信長は森蘭丸ら小性との男色が注目されがちで女性関係についてはあまりくわしいエピソードを残していない、
だが、側室の数も多く男子11人、女子11人の合計22人も子供もおり、信長の女性関係が控えめだったとはいえないず
しかし、戦場にも女性を連れて行く武将が多かったのに対し、信長は小姓を従事させた。そのため、信長は政略や跡継ぎをつくるという点以外では、女性に対する興味が薄かったとする説もある。
信長が子作りに熱心だったことは間違いないが、女性を政略の道具として使う非情さでも徹底していた。その代表的な人物が美貌の妹お市の方であった(浅井長政の継室、後に織田家重臣の柴田勝家の正室)。
11人の娘たちもそれぞれ有力な武将や公家に嫁いだり、側室に入ったりしている。
名門のお嬢様好きの秀吉
豊臣秀吉は「女好き」として有名である。しかも、身分の高い美人女性が好みだった。
淀殿を初め、三の丸殿(信長の娘)、姫路殿(信長の弟・信包の娘)、加賀殿(前田利家の娘)、三条殿(蒲生氏郷の妹)、松の丸殿(京極高次の妹)、甲斐姫(成田氏長の娘)、備前殿(宇喜多直家の未亡人)とそうそうたるメンバーだ。
多くの武将が権力者・秀吉に側室を送って恭順の意を示そうとしたので、身分の高い家の娘が多くなったという説もある。しかし、秀吉の性格(成金趣味)をみると、やはり秀吉は上流の「お嬢様」を好んだと考えるのが自然である。
秀吉はこれと思った相手を強引にモノにした。女性を口説くのにも熱心で、相手が喜びそうなプレゼントを贈ったり、ご機嫌うかがいの手紙を書いたりと、なかなかマメであった。
母娘とも側室にした秀次
殺生関白として数々の乱行で歴史に名を残した秀吉の甥・豊臣秀次は、秀吉に似て女好きで関白就任の際にも秀吉からは「女狂いは控えるように」と咎められていた。
側室の数は34人以上といわれ、なかには「一の台」と呼ばれた美貌の公家の娘がいたが、秀次は一の台の連れ子も側室にしてしまったという。
一の台の娘は当時12歳と推測されており、実の母娘の両方を側室にし、同居させた秀次を世間は「畜生関白」と呼ばれたという。
実用派で若年好きの家康
秀吉とは逆に、下級武士や町人など身分の低い女性をずらりと側室にならべたのが家康である。
15人いた側室のうち3人が元使用人、5人が未亡人だった。美人は少なく、「中顔」が多かったと言われている。これは家康が「健康で丈夫な子をたくさん産める」ことを第一に考えた結果だという。
とくに、子持ちの未亡人は、「元気な子宮」の持ち主だという事がわかっているので多く側室にとった。
また、身分の低い者のほうが金がかからず、男性によく仕える。これも家康独特の女性観によるものと推測されている。つまりブランドや外見にこだわらず無印良品を選んだということになる。
しかし、50歳を過ぎると家康は若い女性を好むようになる。50代以降、新たに奥へあがった5人の側室はすべて12~17歳の若年であった。これは、政権も安定し家康に余裕が出てきた事が伺える。
女性に困っていない感じの家康だが、正室には苦労している。1人めの正室の築山殿(今川義元の姪)陰謀を企てたと信長に責められて自害し、2人めの朝日姫(秀吉の妹)も秀吉のもとへ帰りその後、病没。いずれも悲劇的な結末を迎えている。
戦国一面食いだった信玄
信玄は戦国時代の武将のなかでおそらく一番、正室・側室共に美人をそろえていた。
信玄がほかの武将と違うのは、自らその美貌を実際に見て側室に置いている事だ。 政略で貰った正室の三条夫人も都会的な美人だったと伝えられている。
側室のうち名前がわかっているのは、禰津夫人、油川夫人、諏訪夫人の三人。いずれも近隣にその名を轟かせていた美人である。子どもの数から、側室の人数も多かったようだが詳しい記録は残っていない。
信玄の父・信虎も美人好みで、信玄の母である正室・大井夫人をはじめ、側室そろって美人だった。美貌に魅せられて略奪同然のやり方で側室にすることもあったという。後に信玄は横暴な信虎の性格を嫌い、追放するが、信玄自身もまただまし討ちのようにして滅亡させた義弟・諏訪氏の娘を、周囲の反対を押し切って側室としている。
このことから、信玄の美人好きは父・信虎譲りだったかもしれない。
ブスを貰った吉川元春
毛利家臣の中に武勇に優れた勇将・熊谷信直という人物がいた。
毛利氏に重用された信直には芳桂という顔が醜くい娘がいた。信直は顔が醜い娘が無事に嫁げるか不安になっていたが、毛利元就の次男・吉川元春がその娘を娶りたいと申し込んできた。勿論、信直は政略的な目的があってのことと理解していたが、子煩悩な信直としては願ってもないことだったので、それを承諾した。以後、信直は元春の忠実な家臣となった。。
芳桂は後に「新庄局」と呼ばれ、元春と彼女の間に生まれた子が元長・元氏・広家である。
元々は政略結婚とはいえ、元春はこの妻を深く愛し、他に側室を持つことはなかったという。