目 次
概 要
豊臣秀吉の母・大政所の姉、「とも」と三好吉房の子として誕生した。
幼少期は秀吉が調略した浅井家家臣・宮部継潤の養子となった。その後、三好康長の養子となったが、豊臣政権が樹立すると、豊臣性を名乗り秀吉の養子となり家督と関白職を相続した。しかし、秀吉に豊臣秀頼が誕生すると、秀吉によって荒野山へ謹慎させられた後に、一族もろとも打ち首にさせらえた。秀吉が秀次を謹慎させた理由については、諸説あり。
ポイント
- 秀吉の甥
- 人質として宮部家、三好家に養子するが豊臣政権樹立後に秀吉の後継者として養子入りし関白職を譲られる
- 豊臣秀頼の誕生後に秀吉から疎まれて失脚し自害する
誕生・死没
- 誕生:1568年
- 死没:1595年
- 享年:28歳
墓所
- 和歌山県伊都郡高野町の高野山光台院裏山(墓所)
- 京都市中京区木屋町三条下ルの慈舟山瑞泉寺(首塚)
- 京都市左京区岡崎東福ノ川町の善正寺(菩提寺)
名 前
- 万丸→宮部吉継→?→三好信吉→羽柴信吉→羽柴秀次→豊臣秀次
- 別名:吉継、信吉
- 通称:治兵衛、次兵衛尉、孫七郎、二兵衛
- 渾名:筑前おヰさま、殺生関白、豊禅閤
- 戒名: 瑞泉寺殿高厳一峯道意(瑞泉寺)、善正寺殿高岸道意大居士(光臺院・瑞龍寺・善正寺)
官 位
- 従四位下右近衛権少将、右近衛権中将、参議、従三位、従二位権中納言、正二位権大納言、内大臣、関白、左大臣
主 君
氏族
同い年の人物
親 族
| 父 | : | 三好吉房 |
| 養 父 | : | 宮部継潤→三好康長→豊臣秀吉 |
| 母 | : | 日秀尼 |
| 正室 | : | 池田恒興の娘・若政所 |
| 継室 | : | 菊亭晴季の娘・一の台 |
| 側室 | : |
駒姫(お伊万の方)-最上義光の娘 於妻御前 - 四条隆昌の娘 小督局 - 淡輪隆重の娘 小上﨟 - 四条隆昌の娘 於和子 - 美濃国日比野清実の娘 お辰の方 - 山口重勝の娘(前野長康の養女) 阿左古の方- 北野松梅院の娘 於長の前 - 竹中重定の娘 於亀の前- 摂津国小浜の僧の娘(持明院基孝の養女) 小督局- 和泉国淡輪隆重の娘 於菊の前 - 摂津国の伊丹氏の娘 於園の前 - 大島親崇の娘 於藤の前 - 大草公重の娘 於牧の前 - 斉藤平兵衛の娘 於松の前 - 右衛門の後殿の娘 小少将の前 - 備前国本郷主膳の娘 於佐伊の前 - 別所吉治の客人 おさなの方 - 美濃国武藤長門守の娘 おなあの方 - 美濃国坪内三右衛門の娘 於喝食の前 - 尾張国坪内市右衛門の娘 於輿免の前 - 尾張国住人・堀田二郎右衛門の娘 於世智の前 - 京都住人・秋葉氏/秋庭氏の娘 於愛 - 京衆・古川主膳の娘 おとらの方- 上賀茂の岡本美濃の娘 於古保の前- 近江国鯰江才助の娘 於萬の前- 近江国住人・多羅尾彦七の娘 おみやの方- 近江国住人・高橋某の娘 おきみの方- 近江衆某の娘 せうせうしょうしょうの方- 越前衆(または越前守)某の娘 おこちやの方- 最上衆某の娘 於阿子の前- 出自不明 於杉の前- 出自不明 於竹の前- 京都一条通の捨て子 於仮名の前 - 木村重茲が越前 |
兄弟 | : | 秀次、秀勝、秀保 |
| 子 | : | 仙千代丸、百丸、十丸、土丸(十一丸) |
| 露月院、お菊 |
略 歴
| 1568年 | 1歳 | 三好吉房の子として誕生 |
| 1572年 | 5歳 | 宮部継潤の養子に入る |
| 1573年 | 6歳 | 小谷城が陥落し浅井家が滅亡 |
| 時期不明 | ??歳 | 三好康長の養子となる |
| 1582年 | 15歳 | 本能寺の変 |
| 1583年 | 16歳 | 河内北山2万石の大名となる 滝川一益と戦う 賤ヶ岳の戦いに参陣 |
| 1584年 | 17歳 | 羽柴姓を名乗る 小牧・長久手の戦いで敗れる |
| 1585年 | 18歳 | 紀伊雑賀征伐に出陣で功績を挙げる 秀次と改名 秀吉による四国平定 43万石の大名となる 八幡山城を築城 |
| 1586年 | 19歳 | 豊臣の姓を与えられる |
| 1587年 | 20歳 | 権中納言に任命っされる |
| 1590年 | 23歳 | 小田原征伐 奥州平定に参陣 |
| 1591年 | 24歳 | 九戸の乱で討伐軍の大将として出陣 尾張・伊勢国北部などの5郡が加増され100万国の大大名となる 秀吉の後継者として関白に就任する |
| 1592年 | 25歳 | 左大臣に任命 |
| 1593年 | 26歳 | 秀頼が誕生 |
| 1595年 | 28歳 | 謀反の疑いをかけられ自害する |
出 自
秀次の出自については諸説あるが1568年尾張国知多郡で秀吉の母・大政所の姉・日秀尼(とも)と三好吉房の子として誕生する。
宮部家への養子入り
信長が浅井家攻略に乗り出すと、秀吉は浅井家家臣・宮部継潤を調略、その際に継潤の安全を保障するため人質として秀次を宮部家を養子入りさせた。
その後、浅井家が滅亡すると、宮部継順は与力として秀吉に仕えたため、秀次も人質としての役目を終え、「木下」姓に復帰した。
三好家へ養子入り
本能寺の変後(諸説有り)、今度は三好家の養子として三好康長のもとへ養子入りした。これは康長が豊臣家との関係を強化したかったためと言われている。
康長の養子となった秀次は「三好信吉」と改め、三好家の家臣団を率いた河内北山2万石の大名として若江城を居城とした。
豊臣政権
小牧・長久手の戦い
1583年、滝川一益が伊勢で挙兵すると秀次は近江勢2万を率いる大将として出陣し乱の鎮圧にあたった。
小牧・長久手の戦いでは、大敗を喫することになる「中入れ作戦(池田恒興と森長可が三河に攻め入る作戦)」を秀吉に強く提案したが、この作戦は失敗し結果的に秀吉軍は大敗を喫し、秀次本人も軍目付で同行していた木下祐久と木下利匡を失い命からがら落ち延び、秀吉から激しく叱責されたという。
紀伊征伐と四国征伐
1585年、秀吉が紀伊征伐に出陣すると、秀次も副将として従軍した。千石堀城の戦いでは、小牧・長久手の汚名を返上するため秀次は猛然と敵軍に襲いかかり、首は一つもとらずに打ち捨て一揆勢を皆殺しにして城を落としたという。
四国征伐では、総大将・豊臣秀長の副将として明石より3万の軍を率いて出陣し岩倉城を落城させる等の功績を挙げた。
四国征伐のなか、秀吉が関白に就任すると、秀次も「信吉」から「秀次」に改名した。また、四国が平定すると、秀次は与力達の分を含め蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡43万石の大名となり近江八幡市に八幡山城を築き居城とした。
悲惨な最期
秀吉の後継者として養嗣子となる
1591年、秀吉の嫡男・鶴松が死去した。嫡男を失った秀吉は秀次を養嗣子として、関白職を秀次に譲り自身の後継者とした。
関白となった秀次は聚楽第に居を移したが、実権は秀吉が握ったままだった。このころに聚楽第で2回目の天皇行幸が行われ秀次への権力世襲を内外に示し、秀次が後継者となることは誰の目が見ても明らかなものであった。
秀頼の誕生
1593年、秀吉から秀頼への継承が一通り済んだころ、秀吉の側室・淀殿が秀吉の実子・秀頼を生んだ。
嫡子が誕生した秀吉は秀次の娘を秀頼に婚約させる手配を整え3代目の後継者を秀頼にするという行動を行った。秀頼の誕生によって自身の権力が取られると思った秀次は次第に体調を悪くしていった。
秀次切腹
文禄の役(秀吉による朝鮮出兵)が始まると、当初出陣予定であった秀吉が病気になり出陣の話しが途切れると、朝鮮との外交僧は代わりに秀次に出陣を要請した、しかし秀次はこれを拒否し、日夜、一の台の方ら美妾らと豪遊していたという。
1595年に秀次含む反秀吉一派が鷹狩りを口実として、山中で落ち合って会合を重ねているという噂が回り、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。
秀次は事実無根を主張するため伏見の秀吉に謁見しようとしたが、秀吉は秀次に会おうともせず、逆に高野山へ蟄居(謹慎)を言い渡した。
秀次はすぐに伏見を出発し高野山へ向かうが、後に秀吉から自害を言い渡され、小姓や家臣達と共に自害した。享年28であった。
秀次自害の翌日、秀次の妻妾達の秀吉から処刑が通達された、この中には秀次が最も寵愛していた前大納言・菊亭晴季の娘や最上義光の娘・駒姫も入っており、駒姫に限っては秀次の寝所にも入っていなかったので、前田利家や徳川家康らが助命祈願したがほかの妾らのともに三条河原で処刑さらた。
秀次事件後の経緯
秀次を自害させた秀吉は諸大名を同様させない用に真相をぼかした書状を多数発行し事情を説明し、改めて秀頼に忠誠を誓うよう大名に求めた。
また、大名達には誓紙を書かせ、その中には愛娘を失った最上義光の名もあった。
秀次切腹の理由について
通説では、秀次の切腹の理由については秀次による謀反の企みが理由であるが、本当に謀反が理由であれば当時、切腹は許されず、斬や磔などもっと重い刑罰が科されることが常識であった。
そのため、切腹の理由については下記の通り諸説ある
石田三成讒言説
秀吉の側室であったが病を得たため暇を出され親元に帰されていた菊亭晴季の娘である一の台を、秀次が見初めて、晴季に請うて秀吉には黙って継室としたが、石田三成の讒言でそれを知った秀吉が嫉妬に狂って罪状をでっち上げ処断したとする説。
悪逆説・悪行説
ほとんどの軍記で記載されているのがこの秀次による悪政政治。代表的な悪行は下記の通り
鉄砲御稽古と称して見かけた農民を鉄砲で撃ち殺し、また力自慢と称しては試し斬りをするから斬る相手を探してこいと言い、往来の人に因縁をつけさせて辻斬りを行った。
数百名は斬ったが、これを「関白千人斬り」だとして吹聴し、小姓らがこれを真似て辻斬りを行ったが咎めなかったという。
正親町上皇が77歳で死去したとき、秀次は関白という地位にもかかわらず、精進潔斎をせずに16日にはツルを食し、諒闇の喪に服す期間(=1年間)にもかかわらず、郊外に出て遊興したという。
秀次は女房らを連れて女人禁制の比叡山に登山して一昼夜の遊宴を催した。日中は終日狩りをして、日没後も徹夜で夜興引きを行い、殺生が禁止されている聖地の山で鹿・猿・狸・狐・鳥類と大量の獲物を獲った。山の衆が桓武天皇以来この山は殺生禁断女人結界であると抗議したが、聞き入れなかった
北野天満宮で盲人が歩いているのを目撃した秀次は酒を飲ませてやると騙して手を引かせて、盲人を惨殺した
貸付問題
秀次は朝鮮出兵や築城普請などで莫大な赤字を抱えた諸大名に対して聚楽第の金蔵から多額の貸し付けを行っていたが、この公金流用が秀吉の怒りに触れた。
万人から愛されていた人物だった
秀次が謀反の疑いをかけられたとき、秀吉古参の家臣である前野長康を初め多くの人物たちが秀次の無罪を主張し、家臣・小姓からは殉死者も多く出しており、別に徳のない人物ではなく、家来から見放されたようなことはなかった。
キリスト教宣教師たちも秀次を「この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している。
そのため、上記のような悪行は後世に作られた創作物の可能姓が高い
人 物
武術に優れていた
秀次は切腹の際の介錯ができるだけの腕前があったといい、師匠である疋田景兼、長谷川宗喜や片山久安より剣術と槍術を学んび、刀剣の鑑定を行っていた形跡もある。このほか吉田重氏から日置流弓術を、荒木元清からは荒木流馬術を学んでいた。
武将としての器質
秀次は紀伊・四国攻め、小田原征伐での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を上げ、政務においては山内一豊、堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなした。
秀次が本格的に統治を行った近江八幡では、町割など行政活動を積極的に行って発展させており、近江八幡では領国を流れる日野川の利水をめぐる争いが起こると秀次は自ら現地を視察しお互いが納得できる見事な裁定を下し、現地の人からは未だに尊敬されているという。
文化人
古典の収集に励み、これを保護した。小田原征伐後、奥州に赴いた秀次は中尊寺の大蔵経を接収してこれを持ち帰った。このほかにも足利学校や金沢文庫所収の書籍を持ち帰っている。
また、古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ教養人でもり、『源氏物語』を書写させて所持していた。
連歌と茶も好み養父・の三好康長からこれらを習い、茶については千利休の弟子だったともいわれている。
参考資料(引用元)
豊臣秀次が出演した作品
- 太閤記(1965年、NHK大河ドラマ)演:田村正和
- 黄金の日日(1978年、NHK大河ドラマ)演:桜木健一
- おんな太閤記(1981年、NHK大河ドラマ)演:広岡瞬
- 徳川家康(1983年、NHK大河ドラマ)演:氏家修
- 独眼竜政宗(1987年、NHK大河ドラマ)演:陣内孝則
- 秀吉(1996年、NHK大河ドラマ)演:三国一夫
- 利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年、NHK大河ドラマ)演:池内万作
- 功名が辻(2006年、NHK大河ドラマ)演:成宮寛貴
- 天地人(2009年、NHK大河ドラマ)演:眞島秀和
- 江〜姫たちの戦国〜(2011年、NHK大河ドラマ)演:北村有起哉
- 軍師官兵衛(2014年、NHK大河ドラマ)演:中尾明慶
- 真田丸(2016年、NHK大河ドラマ)演:新納慎也
- どうする家康(2023年、NHK大河ドラマ)演:山下真人
