【戦国武将達の正室や側室とそのエピソード】

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 織田信長

★ 濃 姫 (1535年~没年不詳)
子供無し

●「美濃のマムシ」と近隣の諸将に恐れられた斉藤道三の娘。母親は道三の正室「小見の方」小見の方は明智光秀のいとこにあたった。帰蝶は道三にとっては唯一の実子だった。

● 道三は嫁いでいく娘に、「信長が評判通りのうつけ者なら、この刀で寝首をかいてこい」と短刀をわたした、すると濃姫は「この刀は、いつか父上にむけられるかもしれません」と答えたという。このセリフを聞いた道三は「さすが俺の娘」と喜んだという。

● 嫁いでからの濃姫は影が薄い。あまり記録も残っていない。信長は濃姫に対して関心がなかったともいわれる。

● 濃姫の死亡説にはいくつかある。本能寺の変での死亡説、結婚後数年で死亡した説、道三の死後美濃に返された説。婚約だけして結婚はしなかった説などがある。



★ おなべの方 (生年不詳~1605年)
子供は三人:信高、信吉、女

● 現在の近江八幡市あたりに住んでいた郷土、高畑源十郎の娘。初めは近江八尾山城主の小倉実澄に嫁いだ。なかなかの美人だったらしい。

● 夫の実澄は信長の道案内役をつとめたことが原因で、六角氏に攻められ、自刃。夫の旧臣の仲介で信長を訪ね、側室にしてもらった。信長も美人の「おなべ」が気に入っていたらしく、岐阜場内に御殿を建てて住まわせている。

● 信長は側室に台所用品の愛称をつけるというかわった趣味を持っていた。「おなべ」の名も趣味の表れだった。

● 信長の子を三人生む。前夫との二人の子のうち、一人は信長に側近として仕えたが、本能寺の変で戦死した。関ヶ原の戦いの後、淀殿から50石を賜り、静かに暮らした。



 豊臣秀吉  妻妾合わせて22人

★ おね(北政所)(正室)(1548年~1624年)
子供なし

● 織田家家臣だった浅野長勝の姪。養女となり、14歳のとき、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と結婚。藤吉郎は26歳だった。呼び名は「おね」

● 賢夫人との評判が高く、秀吉のスピー出世を内助の功で支えた。家臣の面倒見もよかった。

● 気どらない人柄で、関白夫人となってからも尾張言葉を使っていた。人前で秀吉と口喧嘩をすることもあった。

● 嫉妬深く、信長に夫の浮気を嘆いたこともある。信長はおね宛に手紙をだし、「あのけしからんハゲネズミは、あなたのような美人の奥方を持つことなど二度とできっこない。だから、もっと心を大きく持つように」とおだてたという。
● 子宝に恵まれなかったおねは、秀吉の子を産んだ淀殿と仲が悪く、秀吉の死後も確執は続き、豊臣家臣団はおねを中心とする尾張閥と、淀殿の近江閥に分裂する。

● 秀吉が死ぬと、おねは尼となり、大阪城を出て京都へ移り住んだ。天下分け目で、尾張閥の武将たちは徳川方につく。合戦後おねは徳川家康から知行を貰って、76歳まで長生きした。



★ 淀殿(茶々)(側室)(1567年~1615年)
子供は二人:鶴松、秀頼

● 浅井長政の長女で、母は織田信長の妹、お市の方。呼び名は「茶々」

● 茶々が7歳のときに父・長政が織田信長により自刀。さらに、お市の方が再婚した柴田勝家も秀吉に攻められ勝家とお市の方は自刃。17歳の茶々は二人の妹とともに、秀吉に引き取られる。

● 23歳で秀吉の側室となり、男子・鶴松を出産。淀城を与えられて、秀吉の寵愛を一身に集め、正室・おねとの対立を深めた。

● 鶴松は幼くして死亡するが、その二年後に、男子「お拾(ひろい)」を出産。

● 美人で名高いお市の方を母に持つが、体格は父・長政ゆずりの大柄で太めの体つきだったといわれる。大阪夏の陣で80kgの大鎧を身に着け、馬にのって場内を激励して歩いたという話が伝わっている。

● 気が強く政治家としての資質はなかった。秀頼を秀吉の後継ぎにという熱望もむなしく、家康との政権争いに敗れ、大阪城で秀頼とともに自刃する。

● 徳川方によって悪女のレッテルを貼られたが、親兄弟を殺された秀吉の寵愛を受け、家康の策略にやすやすと乗せられるなど「お人好し」だったとされている。



★ 三の丸殿(側室)(生年不詳~1641年)
子供なし

● 織田信長の娘。信長が長男・信忠の乳母に生ませた。

● 蒲生氏郷の養女となり、秀吉の側室となる。信長の姪にあたる淀殿(茶々)とは、いとこ同士。秀吉は信長の娘と姪の両方を側室にしていたことになる。

● しばしば悲劇のヒロインとしてとりあげられる淀殿に比べ、いとこの三の丸殿は影が薄い。

● 伏見城の三の丸に住んでいたので三の丸殿と呼ばれた。



★ 姫路殿(側室)
   (生没年不詳)
   子供なし

● 信長の姪にあたる。信長の二番目の弟・織田信包が父親。

● 淀殿(信長の妹の娘)、三の丸殿(信長の娘)はいとこ。三人も側室にしたのである。

● 白鷺城ともいわれた名城、姫路城に住み、姫路殿と呼ばれた。

★ 加賀殿(側室)(1572年~1605年)
子供なし

● 前田利家の三女。母は利家の正室・芳春院(お松)。呼び名は摩阿。

● 柴田勝家の家臣、佐久間十蔵と婚約していたが、勝家が秀吉に滅ぼされた際、十蔵は15歳で戦死。摩阿姫は城外へ逃れ、しばらく秀吉のもとに身を寄せていたが、二年後、14歳の時にに側室となる。

● 加賀殿と呼ばれたが、側室暮らしになじめず、1598年の醍醐の花見のあと病を理由に側室を辞退している。

● 側室を辞した年に秀吉が死去。摩阿姫は万里小路充房と再婚し、利定を生む。



★ 松の丸殿(側室)(生年不詳~1634年)
子供なし

● 名門、京極高吉の娘で、高次は弟。美人の誉れ高い女性だった。名は竜子。

● 若狭守護の武田元明に嫁いで、二人の息子を生んだが、山崎の戦いで秀吉に夫を殺され未亡人となる。

● 実家の安泰のため、竜子は自ら進んで秀吉の側室となることを申し出た。

● 大阪城では西の丸に住み、西の丸殿と呼ばれ、伏見城が完成すると伏見城内の松の丸に移り、松の丸殿と呼ばれた。

● 淀殿とはいとこ同士であるが関係は悪く、側室の権勢を争い合う気の強さの持ち主でもあった。花見の席で、松の丸殿が淀殿と杯争いをしたこともあったという。

● 秀吉没後は、弟の居住大津に移住した。



★ 三条局(側室)(生没年不詳)
子供なし

● 蒲生賢秀の娘で、蒲生氏郷は兄。名は虎という。

● 柴田勝家を滅ぼした秀吉は凱旋途上、近江日野城に氏郷を訪ね、妹の虎を側室に貰い受けた。

● 氏郷は妹の虎といっしょに、養女の三の丸殿も側室として差し出し、秀吉の歓心を買ったといわれる。氏郷はこののち、会津100万石に抜擢された。

● 京都屋敷に住み、三条局と呼ばれた。

 徳川家康 妻妾合わせて17人

★ 築山殿(正室)(1542年頃~1579年)
子供は二人:信康、亀姫

● 今川義元の家臣、関口親永の娘で、母親は今川義元の妹。名は瀬名(せな)

● 伯父・義元に人質として預けられていた家康と1557年に結婚。そのとき家康は14~16歳、築山殿は家康と同年代もしくは8、9歳年上だったといわれている。

● 1559年に信康を、翌年に亀姫を出産している。

● 桶狭間の戦いの後、家康が独立し織田家と同盟を結ぶと、これに怒った今川氏真(義元の嫡男)は築山殿の実父である関口親水を切腹させた。以後、家康と築山殿との関係は冷え切ってしまった。

● 家康が織田と同盟を結んだあと、二人の子とともに岡崎に移り、築山のそばに住んだので、「築山殿」と呼ばれるようになる。

● 長男・信康が徳姫(信長の娘)と結婚。徳姫は父や伯父を死に追いやった信長の娘で、築山殿との関係は悪かった。築山殿は憎さのあまり、甲州から美貌の側室を信康に迎えて、息子夫婦の仲を裂こうとした。

● 武田勝頼と内通して徳川家滅亡を図ったとの疑いをかけられ、人里離れた山中で家康の家臣に殺害された。長男・信康も同じ理由で自害。築山殿のイジメに怒った徳姫が、信長に告げ口したのが原因といわれるが、詳細ははっきりしていない。

● 築山殿は呪いをかけて死んだといわれる。築山殿を斬った武士の家では口のきけない女子が二人も生まれた。



★ 朝日姫(正室)
   (1543年~1590年)
   子供なし

● 豊臣秀吉の異父妹。旭姫とも。家康の正室になるまでの詳しい経歴は不明。

● 水呑百姓(貧しくて水しか飲めない百姓)だった最初の夫と死別、豊臣秀吉の家臣・佐治日向守と再婚。夫婦仲はよかったが、家康との政略結婚のため無理やり離婚させられる。当時43歳。

● 築山殿の死後、長く空いていた家康の正室の座につく。1586年、盛大な結婚式が行われた。家康45歳、朝日姫44歳と高齢であった。

● 家康の正室とは名ばかりで、実際は人質。のちに大政所(秀吉の母)が一時的な人質として徳川方に送られてくると、朝日姫は大政所と抱き合って泣いたという。徳川方では、それを見て大政所は替え玉ではなく、本人であると判断した。

● 結婚から3年後の夏、大政所の病気見舞いのため上洛し、そのまま病の床についた。そして浜松に帰るころなく翌年「気うつ」という病気のため聚楽第で死亡。



★ 西郡局(側室)
   (生年不詳~1606年)
   子供は一人:督姫

● 家康の青年時代の側室。現在知られている側室のなかでは最初の妾。三州西郡城主・鵜殿長忠の娘で今川義元の妹が祖母。名は不詳

● 1562年、家康が鵜殿氏を攻略した際に敗れた長忠が忠誠の証に差し出したといわれている。このとき家康は21歳。築山殿が人質で駿府にいるため、正室より早く岡崎城に入っている。岡崎城時代の家康は、西郡局一人しか側室いなかった。

● 家康が24歳の時に督姫を出産。その後、督姫は北条氏直に嫁いだが、のちに池田輝政に嫁ぐ。

● 伏見城で急死した。直接の死因は不明で、陰謀渦巻く大奥での暗殺説など、後世に多くの話題を残すことになった。

★ お万の方(側室)
   (1547年~1619年)
   子供は一人:秀康

● 築山殿に仕えていた侍女で、小督局(おごうのつぼね)と呼ばれてた。出戻りで、父親は町医者とも神主ともいわれている。家康の側室となるまでの経歴は明らかではない。

● 湯殿で家康が手をつけ、妊娠。当時27歳。侍女の妊娠に築山殿は怒りが爆発。夜にお万の方を裸にして縛りあげ、鞭打ちのうえ場内の草むらに放置したといわれる。運よく当直の本田重次に発見され、場外で於継丸(結城秀康)を出産する。

● 秀康が豊臣秀吉の養子になると、共に大阪へ向かう。身分が低く素行がよくなかったので、出産後は家康に遠ざけられたという説もある。

● 秀康は若くして病死し、悲しみにくれたお万の方は出家。「長勝院」と称した。



★ 西郷局(側室)
   (1562年頃~1589年)
   子供は二人:秀忠、忠吉

● 五本松城主だった西郷正勝の孫で、父は戸塚忠春、名は昌子。
● いとこの西郷義勝の後妻になったが、戦死。その後、猿薬師の服部正尚のもとに身を寄せていたが、その美貌が家康の目にとまり17歳で側室になった。

● 美人でおっとりした人柄で、家臣や侍女にも好かれたという。「お愛の方」または「お丁の方」と呼ばれた。
● 三男・秀忠、四男・忠吉を出産。秀忠はのちに二代将軍となり、忠吉は松平(東条)を相続。

● 三十歳になるかならないかで若死。二代将軍の生母であることから、死後、正一位になった。法名は「宝台院」

● 家康にもっとも愛された側室といわれている。

★ 茶阿の方(側室)
   (生年不詳~1621年)
   子供は三人:忠輝、松千代、女

● 遠州金谷の鋳物師の女房だったが、夫が殺され、未亡人に。詳しい詳細は不明。茶阿局、お久の方とも。

● 三歳になる娘を連れ、鷹狩りをしている家康に夫の仇討を直訴。または夫を撃ち殺され、娘を抱いて逃げまどっていたところを家康に助けられたともいう。

● 家康は母娘をそのまま浜松城へ連れ帰った。端女からスタートして、ついに側室まで出世した。

● 家康との間に、六男・忠輝をはじめ二男一女をもうけた。

● かなりの美貌の持ち主で、気も強かったらしい。才気にも冨み、北政所や伊逹政宗と書状を交わす社交性も発揮した。

● 家康の死後は出家し、江戸へ移り住んで晩年を過ごした。



★ お亀の方(側室)
   (生年不詳~1641年)
   子供は二人:仙千代、義直(初代・尾張徳川家)

● 近江の足軽、竹腰正時に嫁いでいたが離縁。側室にするため、家康が金で離縁させたともいわれる。

● 側室に上がって約十年後、家康の八男・九男を出産。九男出産時、お亀の方は30歳前後、家康は60歳を過ぎていたといわれる。

● 妊娠がわかると、家康は山伏をしていたお亀の方の実父を探し出し、3000石の旗本に取り立てた。

● 側室になった経緯からお亀は家康好みの美人であったと推測される。

● 八男・仙千代は早死にするが、九男・義直は尾張徳川家初代当主となった。ちなみに前夫・正時との子・伝次郎正信はのちに義直の家老に取り立てられる。



★ 蔭山殿(側室)
   (1580年~1653年)
   子供は二人:頼宣(初代紀・伊徳川家)、頼房(初代・水戸徳川家)

● 北条家の浪人、正木邦時の娘。父と死別後、母が北条家臣の蔭山氏広と再婚。「三島の桐」という遊女だったとする説もある。

● 伊豆へ鷹狩りにきた58歳の家康に美貌を認められ、側室に。14歳だった。その後、家康の十男、十一男を出産。それぞれ紀伊家、水戸家の初代藩主となる。

● 京都で日蓮宗の法話を聞き、熱心な信者となる。やがて日蓮宗の僧で30歳の美男「日遠(にちえん)」と知り合い、熱烈なファンとなる。

● のちに家康は宗教上の理由から日遠に死刑を申しわたすが、蔭山殿の訴えでしぶしぶ日遠を許している。

● 家康の死後は出家して「養珠院」と称す。



★ お八の方(側室)
   (1578年~1642年)
   子供は一人:市姫

● 太田康資の養女。父は水戸城主・江戸但馬守といわれる。「お勝の方」、「お梶の方」とも呼ばれた。

● 13歳で家康の側室に。側室に上がった年齢は家康のなかで最年少で、家康との年齢差は36歳もあった。そのため家康はお八の方を溺愛していた。

● お八の方が成長すると、家臣の松平正綱に嫁がせた、しかし、お八の方は、正綱を嫌い夜のおつとめを拒否。1か月後に家康に呼び戻された。

● 家康のもとに戻ったお八の方は30歳で市姫を出産した、しかし4歳で早死にしたため、蔭山殿の次男(頼房)の養母をつとめた。

● 関ヶ原の戦いや大阪冬の陣・夏の陣にも同行し、関ヶ原の戦いで勝った家康が「お勝」と改名している。

● 家康の死後は尼となり「英勝院」と称した。

★ 阿茶局(側室)
   (1555年頃~1637年)
   子供なし

● 武田家臣、飯田直政の娘で、家康の大のお気に入り。「お須和の方」とも呼ばれた。

● 今川家家臣・神尾孫兵衛に嫁ぐが、夫が戦死。25歳で家康の側室となる。

● 頭がよく家康の信頼も厚く、政治面でも重要な役目を果たした。

● 各地の陣中にもたびたび同行。小牧・長久手の戦いでは陣中で流産している。また、大阪冬の陣では板倉重昌と大阪城に入り、淀殿から誓紙を受け取った。

● 家康の遺言により、家康の死後も仏門に入らず、秀忠、家光に仕えた。秀忠の娘「和子」が後水帝の中宮として入内する際は母親代わりをつとめ、従一位に叙せられた。



★ その他(側室)

● お竹の方
武田の家臣の娘と伝えられる。家康の三女・振姫の母との記録があるが不詳。 ● お六の方
お八の方の小間使いであったが、その美貌に家康が目をつけて側室に。家康の55歳年下で、家康が死んだときは20歳。尼にならずに再婚した。数年後、家康の法事で焼香中、香炉がはじけて破片が額にあたり死亡した。家康のたたりと噂された。

● お牟須の方
武田家家臣の娘。家康の甲斐進出中に側室となる。肥前名護屋の陣中に同行した際、難産で死亡した。

● お都摩の方
武田家家臣の娘。下山殿ともいわれ、家康の五男・信吉の母とされる。

● お奈津の方、お梅の方
いずれも家康の晩年の頃の側室

● お仙の方、湖茶局、大橋局