家中をとりまとめた阿波三好家の重臣
篠原 長房
概 要
阿波三好家の家臣。阿波国麻植郡上桜城主。三好実休の重臣とし主家の分国法「新加制式」を制定、家中をとりまとめ三好三人衆に次ぐ地位にあったが、濡れ衣を着せられ主君・長治によって殺害される。
ポイント
- 三好実休の重臣とし主家の分国法「新加制式」を制定
- 家中をとりまとめ、三好三人衆に次ぐ地位を築く
- 同族・篠原自遁の女性トラブルに巻き込まれ殺害される
誕生・死没
- 誕生:?
- 死没:1573年
- 享年:?歳
- 墓所:徳島県阿波市阿波町野神の伊沢神社境内
名 前
- 紫雲(号)
- 岫雲斎怒朴(法名)
官位・役職
- 官位: 右京進
略 歴
1553年 | ?歳 | 主君・三好実休が阿波国守護・細川氏之を殺害し下剋上を成し遂げる |
1559年 | ?歳 | 兼詮(実誓)の娘を正室にする |
1562年 | ?歳 | 久米田の戦いにおいて先陣を任され勇戦する の教興寺の戦いで畠山高政を破る 剃髪し岫雲斎怒朴と号す 三好長治が阿波三好家の家督を継ぐ |
1566年 | ?歳 | 三好家で内乱が勃発し畿内に上陸、各地で転戦する |
1568年 | ?歳 | 信貴山城の戦いで勝利する 織田信長の上洛軍に敗れ阿波へ逃亡する |
1569年 | ?歳 | 三好三人衆とともに和泉国へ上陸するが織田軍に敗れる |
1571年 | ?歳 | 本太城合戦で小早川隆景の軍を破る |
1571年 | ?歳 | 本太城合戦で小早川隆景の軍を破る 畿内に上陸し信長方の高屋城を攻める |
1513年 | ?歳 | 同族・篠原自遁の陰口によって三好長治に攻撃され戦死 |
出 自
阿波三好家の重臣・篠原家の嫡流として誕生する
三好家の家臣、篠原家の嫡流で、阿波国麻植郡上桜城主・篠原長政の子として誕生する。
その後、阿波三好家の当主・三好実休に仕えた。
三好家での活躍
三好実休の重臣
1553年、三好実休が阿波国守護・細川氏之殺害して下剋上を成し遂げると長房もこれにしたがった。
その後、実休の命で播磨国、摂津国など各地で転戦し、筆頭家臣として頭角をあらわした。
1561年、実休が畠山高政との戦のため和泉国へ進軍すると長房もこれに従軍し、先陣を務めた勇戦した。
しかし、手薄となった本陣を敵に襲われ実休は戦死、長房は兵をまとめ撤退した。
その後、主君・失った長房は同族である篠原自遁や赤沢宗伝とともに剃髪し、「岫雲斎怒朴」と号した
筆頭家臣として三好長治を補佐する
実休の死後、阿波三好家の家督は実休の長男・三好長治が継いだ。しかし、長治はまだ幼少だったため、長房は自遁や宗伝らと供に長房をサポートした
三好家の内乱
三好三人衆と協力し松永久秀と戦う
1564年、三好宗家の当主・三好長慶が死去し、家督は三好義継が継いだ。
その後、長慶の死を好機とみた足利義輝は上杉、武田、朝倉などに上洛を呼びかける行動をとった。これに危機感を抱いた三好三人衆は義輝に対してクーデータを結構し義輝を殺害した。(永禄の乱)
しかし、義継もまた若年だったため、三好は三好三人衆と松永家、阿波三好家を支える篠原長房・三好康長の連立政権が樹立された。 しかし、義継もまた若年だったため、三好は三好三人衆と松永家、阿波三好家を支える篠原長房・三好康長の連立政権が樹立された。
さらに、三人衆は勢力を急拡大していた松永久秀に攻撃を仕掛け、久秀を攻撃し三人衆と久秀は対立し三好家内にて内乱が発生した。。
長房は三好三人衆側につき、松永久秀と対立、四国勢を動員し畿内に上陸し、松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和国ほか各地に転戦した。
当時の長房は三好三人衆以上の勢力をもっていて阿波国において絶対的な存在であり、長慶の死後の三好家を支えていたという記述が残されている。
織田信長の登場
織田信長の上洛により三好軍は崩壊し四国へ
1568年、織田信長が足利義昭を擁立し、上洛を開始した。
三好三人衆と長房はこれに抵抗するが織田軍に破れ、三好軍は崩壊、その後も三好方の城は次々と陥落し長房は阿波国へ避難、松永久秀と三好義継は織田信長に巨従した。
本圀寺の変
信長の上洛を阻止できず阿波に避難した長房は、体制を整え三好三人衆とともに和泉国へ上陸し本圀寺にいる義昭を襲撃した。
しかし、信長方の細川藤孝や三好義継らの援軍に破れ再度阿波へ逃亡した。
本圀寺の変
信長の上洛を阻止できず阿波に避難した長房は、体制を整え三好三人衆とともに和泉国へ上陸し本圀寺にいる義昭を襲撃した。
しかし、信長方の細川藤孝や三好義継らの援軍に破れ再度阿波へ逃亡した。
その後、長房は本願寺顕如より盟約を結んだほか、兵庫浦に進軍し、瓦林三河守を討ち取るなど何度か畿内上陸し信長方と戦っている。
上桜城の戦い
同族・篠原自遁の陰口により主君・三好長治の攻撃を受ける
三好実休の後妻である小少将は、実休亡き後、篠原自遁を身近におき密通し関係を持っていた。
2人の噂さはすぐに国中に広まった。長房はこの事について小少将を厳重に注意した。そのため、小少将は長房をやっかみ、自遁と供に長房に噂が広まった責任押し付けた。
長房はこの状況にうんざりした、居城である上桜城に引き籠るようになった。しかし、これが反逆行為とみなされ、主君・長治が長房討伐を兵をあげた。
長治・真之に破れ戦死する
1573年、長治と真之は長房の居城・上桜城を攻撃、約2花月の籠城戦の末、長房と嫡男・長重はこの戦いにより戦死。三好家は重用な人材を自身と手で打ち取った。
長房の死後、上桜城は廃城となり、長房討伐で功績を挙げた川島惟忠が川島城を築城した。
長房の子孫
長房の遺児達は、紀伊国へ落ち延びた後、豊臣秀吉の用人となったあと、佐竹家に仕え朝鮮出兵や大阪冬の陣に参陣した。
人 物
阿波国の絶対的領主
ルイス・フロイスによると、長房は入信はしなかったが、キリスト教を非常に理解している人物と評価しているほか、「阿波国の絶大の領主」「偉大にして強力な武士」と称している。