ポイント
- 戸沢家18代当主
- 領土を広げ戸沢家の全盛期を築く
- 東北大名の中でいち早く小田原征伐に参陣する
- 戦での勇猛振りから「鬼九朗」の異名をとる
目 次
誕生・死没
- 誕生:1566年
- 死没:1590年
- 享年:25歳
官職・役職
- 官位: 治部大輔
親 族
- 父 : 戸沢道盛
- 母 : 本堂親条
- 正 室 : なし
- 側 室 : 仙北在家の娘
- 子 : 戸沢政盛
- 養 子 : 戸沢光盛
略 歴
1566年… | 戸沢道盛の子として生まれる | 1578年… | 病弱な兄に代わり13歳で家督を継ぐ |
1582年… | 小野寺家、安東家との抗争が激化する |
1583年… | 安東家を唐松野合戦で破って淀川城を奪回する |
1586年… | 小野寺家を破り上浦郡へ進出する |
1589年… | 安東氏の内紛「湊合戦」で湊通季を支持し、秋田実季と戦う |
1590年… | 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し所領を安堵される 小田原征城落城前に病死する。 |
家督相続
盛安には兄・盛重が居り家督も盛重が継いでいた。しかし盛重は生まれてきてから多病のために1578年に家督を弟の戸沢盛安に譲って仏門に入った。そのため、盛安は次男とゆう立場ながら戸沢家の家督お継いだ。
戸沢家の最大版図を築く
家督をついだ盛安は1582年頃に大曲平野に進出し、小野寺氏と対立を深めながら、最上氏と連携して小野寺氏に脅威を与えるなど、活躍した。同年、楢岡城主の小笠原右衛門と共に安東愛季の3000千の兵を1,000の兵で三日の野戦の末に破りやがて北浦郡を平定する。
1586年、阿気野の合戦では盟友・楢岡氏の手引きによって上浦郡沼館城へ進軍し勝利、小野寺氏を破り上浦郡へ進出した。
1583年には仙北に侵入した安東愛季を唐松野合戦で破って淀川城を奪回するなど、現在の秋田県の角館地方を中心に確固たる勢力基盤を築き上げた。最終的には最終的には4万4,300石を支配したとされる。
所領安堵と死去
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐では東北地方の大名としては1番最初に参陣し秀吉に謁見した。その後、中村一氏の幕下に入れられ、北浦郡4万4,000石の所領を安堵された。しかし、小田原城落城の前に突然病死した。享年25。
嫡男・政盛は4歳だったため、弟の光盛に家督を譲ることを秀吉に託したという。墓所は小田原の海蔵寺
「鬼九朗」と呼ばれた人物
智勇に優れ、総大将ながら常に陣頭に立って、単騎で敵勢の中に突っ込むという荒武者であったといわれる。そのため、周辺の諸大名から「鬼九郎」「夜叉九郎」と呼ばれた。
しかし、その一方で一方で、捕虜の兵士は斬らずに逃がしたり、部下を大切にするなど慈悲深い面もあったといわれる。
阿気野の合戦【逸話】
小野寺家との戦い「阿気野の合戦」では、沼館城主・大築地秀道配下の敵将・小清水蔵人を兜ごと一刀両断し首級を自ら挙げる武勇をみせたと伝えられています。
小田原参陣への道のり【逸話】
小田原征伐の際に商人に変装して侍6人と足軽3人を連れて参陣したと言われている。
また、羽前の港の酒田に到着したところで旅費が尽きてしまい、酒田の豪商・加賀屋与助から七両を借りたという。
盛安が金谷に居た時、秀吉は既に島田におり、急いで引き返したが、途中大井川が大雨で増水し、渡れないという状況に遭う。家臣は渡るのは明日にしようというが、盛安は「関白殿下に忠義を立て遠国から駆けつけて、一夜たりとも遅参してはならぬと思った次第。増水などに負けぬ。」 と言って提灯を掲げて根性で泳いで渡った。そして体が濡れたまま対面し、「羽州角館の住人戸沢治部大輔参陣仕る」と言い、秀吉はその行動を褒めて太刀を与えたという