阿波細川家9代当主として細川晴元を支援し、大物崩れで功績を挙げた
細川 氏之
ポイント
- 阿波細川家9代当主
- 細川晴元を支援し細川高国討伐で功績をあげる
- 三好実休によって殺害される
誕生・死没
- 誕生:1497年
- 死没:1553年
- 享年:56歳
- 墓所:徳島県徳島市の丈六寺
主君
氏 族
役 職
- 室町幕府:阿波守護
官 位
- 讃岐守
略 歴
1531年 | ?歳 | 細川晴元を支援し大物崩れで功績を挙げる |
1539年 | ?歳 | 備中国に出陣し尼子家と戦う |
1553年 | ?歳 | 三好実休に攻められ殺される |
生 涯
細川晴元を支援し大物崩れで功績を挙げる
細川晴元と細川高国による細川本家(京兆家)当主の座を争う「両細川の乱」では、氏之は細川晴元を補佐し、1531年に阿波国の軍勢を率いて和泉国に渡海し、高国の討伐戦(大物崩れ)で功績を挙げた。
内輪揉め
政権を奪取した細川晴元は足利義晴を擁立し新たな将軍としようとし、足利義維を排除しようとした。しかし、晴元の重臣・三好元長がこれに猛反発し両者の関係は悪化、晴元が元長を攻めようとした。
このような不安定な状況のため、氏之は晴元から離反して、阿波に帰国。その後、12代将軍・足利義晴や光勝院周適の仲裁で晴元と和解する一方で、義晴と将軍の座を争った足利義維を阿波に迎え入れた。
死 去
1553年、氏之は三好長慶の弟・三好実休の手によって、殺された(勝瑞事件)。
詳しい殺害動機についはて不明だが、長慶に対抗するため足利義栄(義維の子)を擁して上洛を謀ったが実休に漏れたとする説、
阿波国内での実休の力の増大に脅威を感じて暗殺を謀ったのが実休に漏れたとする説、長慶に敗れて没落していた細川晴元の再起を氏之が支援しているのが実休に漏れたとする説があるが、
氏之が突然、長慶・実休と対立するに至った背景には謎が多い。
出生の謎
実父には細川澄元説と細川之持説がある
通年では、氏之は細川之持の子で1497年に誕生したとされ、細川晴元は従弟の関係にあるとされてきた。
しかし、近年の研究で、細川之持の天文年間の病死説を否定して、1512年に死去したこと、『細川両家記』に氏之を晴元の御舎弟と記されていること、さらに『細川高国晴元争闘記』という史料にも氏之が1531年当時に15歳か16歳であるという記事が見つかった。
氏之が1516年または1517年生まれの可能性があり、その場合は時系列的に氏之は之持の子でくなる。之持と氏之を父子とするのは後世に編纂された系譜類のみであり、これらのことから氏之は晴元の実弟(細川澄元の子)とするのが正しいとされる。