三好家の重臣として織田家との交渉役を務めた

篠原 自遁しのはら じとん

概 要

阿波三好家に仕えた篠原氏の庶流。三好実休・長治に仕えた重臣で十河存保に仕え織田家との交渉や長宗我部家と戦った。

  ポイント

  • 阿波三好家に仕えた篠原氏の庶流
  • 三好氏之の妻(長治の母)と密会し篠原長房討伐の要因を作る
  • 三好家の重臣として織田家との交渉役を務めた

誕生・死没

  • 誕生:?
  • 死没:?
  • 享年:?歳

名 前

      
  • 実長(諱)
  •   
  • 自遁(法名)

官位・役職

      
  • 官位: 弾正忠

親 族

長秀右近

略 歴

1562年 ?歳   三好実休が死去
実休の子・三好長治を支える
1573年 ?歳  篠原家の嫡流・篠原長房が三好長治に討たれる
自遁が三好家の筆頭家老になる
1576年 ?歳  三好長治が細川真之に討たれる
自遁が失脚
1577年 ?歳  自遁が阿波三好家に復帰
1582年 ?歳  自遁が織田家との交渉役を行う
中富川の戦いで長宗我部家に敗れる
自遁は淡路に逃れる

出 自

阿波三好家の重臣・篠原家の庶流として誕生する

自遁についての生年月日はわからないが、阿波三好家に仕えた篠原氏の庶流の出身とされ、嫡流家の篠原長房と共に三好実休に仕えた。

三好家での活躍

三好実休が死去し三好長治に仕え筆頭家老となる

1562年、実休が戦死した後は、阿波三好家を主導する篠原長房と共に三好長治を支えた。
しかし、実休の室(三好長治・細川真之の母)である小少将が白遁と密通し、その噂が国中に広まった。小少将は広まった責任を篠原長房に着せた結果、長房は三好長治や阿波守護家当主の細川真之に攻められ討死した(上桜城の戦い)。※原因については信憑性が低い

この結果、自遁は長房に代わり、阿波三好家の重臣筆頭の立場になり毛利家との交渉や嫡子・長秀は長治に近侍し、自遁父子は阿波三好家において存在感を増していた。

三好長治が自害したことにより失脚する

1576年、三好長治は細川真之と対立した後に、家臣である一宮成相らの離反を受けて自害した成相が阿波三好家の本拠地・勝俣城を占拠した。
長治に味方した自遁この戦により失脚、嫡子・長秀も討ち死にした。

十河存保の家臣として

十河存保が阿波三好家の当主となる

1577年、阿波三好家の旧臣である矢野房村が一宮成相に反旗を翻し、勝俣城を奪還し当主に長治の弟・十河存保当主として迎え、その後、自遁も存保に従った。

>十河存保のもとでの活躍

存保の家臣となった自遁は、織田政権との交渉役をつとめる
また、中富川の戦いで三好存保が長宗我部勢に敗れ存保が勝端城に籠城すると、自遁は豊臣秀吉と勝端城救援の計画を行うが、勝瑞城が落城したことで秀吉の救援はなくなった。その翌年には自遁の居城・木津城も長宗我部家によって落城し、自遁は淡路に逃れた。

その後、秀吉による四国攻めの結果、新たに阿波の国主になった蜂須賀家政に対し、自遁が山伏を紹介する書状が自遁が最後に登場する史料になる。