享徳の乱の始まりを告げる戦

【分倍河原の戦い】

 基 本 情 報

  • 交戦勢力 : 関東管領(上杉顕房)VS鎌倉公方(足利成氏)

  • 期 間 : 1455年1月21、22日

  • 場 所 :武蔵国 分倍河原(東京都府中市)

  • きっかけ : 享徳の乱の口火を切る戦

  • 結 果 : 鎌倉公方(足利成氏)の勝利

関東管領勢
(上杉顕房)

VS

鎌倉公方
(足利成氏)

山内上杉家
扇谷上杉家
犬賭上杉家
小山田上杉家

参加勢力

足利家
結城家

上杉顕房
上杉憲秋
上杉藤朝
長尾景仲
大石房重

主な武将

足利成氏
結城成朝
結城氏広

 概 要

享徳の乱の口火を切った戦。
鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺、上杉本拠地の上野国に攻め込むため北上を開始する。
一方上杉側は山内上杉家臣・長尾景仲は兵を集め成氏が在中する府中に向けて出撃、上杉一族もこれに合流すべく出陣し両者は府中は分倍河原で激突した…

上杉憲忠は足利成氏からの至急の出仕命令を受けた。
折りしも、長尾景仲は年の終わりが近いということで、同じく家宰であった義兄の長尾実景に留守を託して長尾郷の御霊宮に泊りがけで参詣に出ており、憲忠はそのまま、成氏の御所に出仕した。

ところが、御所に入った憲忠を結城成朝・里見義実・武田信長が手勢を連れて取り囲み、憲忠はなすすべも無く、結城家臣の多賀谷高経(後の朝経)・氏家兄弟によって討ち取られた。同じ頃、岩松持国率いる別働隊が管領屋敷を襲撃し、実景ら上杉家家臣を殺害したのである。

憲忠暗殺の報せを聞いた景仲は鎌倉に戻ると、直ちに管領屋敷に火を放つとともに憲忠正室(上杉持朝の娘)ら生き残った人々を持朝の糟谷館に避難させた。糟谷館に着いた景仲は、持朝や持朝嫡男で扇谷上杉家当主の顕房・犬懸上杉家の憲秋・小山田上杉家の藤朝ら上杉一族の要人と協議して京都にいる憲忠の弟・房顕を次の関東管領に迎え入れるとともに成氏を討伐する事を決めた。更に景仲はそのまま領国の上野に入って兵を集めるとともに、使者を越後守護の上杉房定に派遣して援軍を求めた。更に嫡男・景信を直接京都に派遣して事の次第を幕府に報告するとともに、房顕を迎える事にした。

年が明けて1月5日、成氏は上杉氏の本国である上野を攻略するために鎌倉を出発して武蔵国府中の高安寺に入った。一方、この報を聞いた上杉持朝はその留守に鎌倉を奪おうとして出陣したものの、翌日になって相模国島河原(現在の神奈川県平塚市)で鎌倉の留守を守っていた武田信長の迎撃にあって敗退した。この報せを聞いた長尾景仲は直ちに上野・武蔵の兵を率いて府中に向けて出撃し、上杉一族もこれに合流すべく出陣した。

 1 日 目

府中に集結した上杉軍だが成氏の奇襲攻撃にあい混乱、上杉憲秋が致命傷を負い自害する。成氏軍の圧勝に終わる。

府中近郊に結集した上杉軍は2000騎の兵で高安寺に攻め寄せるが、成氏軍は分倍河原に500騎で討って出た。
成氏軍の突撃に不意を突かれた上杉軍は混乱し、先鋒の上杉憲秋は手前の立河原(現在の東京都立川市)で敵の手にかかってしまう。致命傷を負った憲秋は家臣によって間一髪のところで救われたものの、高幡不動(一説には荏原郡池上)で自害した。憲秋自害を知った上杉顕房らは激怒して翌日新手の500騎をもって分倍河原に進撃した。

 2 日 目

上杉憲秋の自害を知った上杉顕房は激怒し分倍河原に進撃した。
両者一進一退の攻防になったが、成氏側の結城成朝らの軍勢が上杉軍に襲いかか上杉軍は東に向かって潰走、上杉顕房・藤朝は自害した。

緒戦で上杉軍先鋒の大石房重らが討たれたものの、成氏軍にも多くの犠牲が出たため一進一退となった。そこへ、結城成朝らの軍勢が上杉軍に襲いかかったために上杉軍は後退をはじめ、更に相模への退路も絶たれたために上杉軍は東に向かって潰走した。
だが、なおも結城成朝率いる成氏軍の追跡は続き、武蔵夜瀬(同三鷹市)で包囲された顕房・藤朝は自害し鎌倉公方側の勝利に終わった。

 決 戦 後

鎌倉公方の勝利によって終わった部倍河原の戦い。
辛うじて生き延びた長尾景仲は残った軍をまとめて辛うじて常陸国小栗城に逃げ延びる。
足利成氏は武蔵国内の上杉側の拠点を次々と攻略し、「享徳の乱」が繰り広げられる事になっていった。

勢いに乗じた足利成氏は武蔵国内の上杉側の拠点を次々と攻略するが、長尾景仲が小栗城にいると知って3月3日に下総国古河城に入り、那須資持・筑波潤朝・小田朝久らの加勢を得て小栗城の攻撃を開始した。
途中、小田朝久の急死という事態はあったものの、閏4月にはここを攻め落として景仲を敗走させた。一方、扇谷上杉家では顕房の子・上杉政真が当主に立てられて、顕房戦死の責任をとって出家した太田資清に代わって息子の資長(後の太田道灌)が家宰に就任した。

一方、京都の室町幕府ではこの年明け早々にこの戦いの報が入っていたが、成氏に同情的な意見もあり議論は紛糾した。だが、管領細川勝元の意向で3月には成氏討伐令が上杉氏一族をはじめ周辺の守護である今川範忠(駿河)・小笠原光康(信濃)・宇都宮等綱(下野)・千葉胤直(下総(前守護))にも下された。宇都宮・千葉両氏は江ノ島合戦では成氏側についていたが、宇都宮氏は元々父親である先代持綱を成氏の父・持氏に殺されたために復讐の機会を狙っており、千葉氏では江ノ島当時の当主であった守護・胤将が急死して持氏と対立していた先代胤直が復帰していたため、今川氏・小笠原氏とともに成氏討伐軍に加わったのである。