1.城データ
年 表
1180年… | 下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に館を築いた。 |
1340年… | 北朝方の高師冬が入城し、常陸国小田城に滞在した南朝方の北畠親房と対峙[24]。このころ、古河城は足利氏の拠点であった。 |
1382年… | 南朝方を称した小山義政が来襲。城主・上杉憲栄の代官・下河辺朝行は防戦したが落城。(『関八州古戦録』) |
1386年… | 第二代鎌倉公方足利氏満が小山義政遺児の若犬丸の乱鎮圧のため入城。このころ野田氏が城主になった。 |
1440年… | 結城合戦では、結城方の野田右馬助(野田持忠)・矢部大炊助らが籠城するが、翌年の結城城陥落直後に上杉清方が来襲・落城。 |
1454年… | 鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱が勃発。 |
1455年… | 上杉方の今川範忠が鎌倉を制圧。足利成氏は、鎌倉から古河に本拠を移した(古河公方)。 |
1457年… | 足利成氏は立崎の本城を整備して居城とした。 |
1471年… | 山内上杉家の家宰である長尾景信来襲。足利成氏は本城を放棄したが、翌年奪回。 |
1493年… | 足利成氏は、城の鬼門除けとして、鎌倉の長谷観世音を勧請。(現在の長谷寺) |
1497年… | 足利成氏没。 |
1506年… | 第二代古河公方足利政氏と嫡子の高基との間に抗争が発生し、高基は下野の宇都宮成綱のもとに走った。 |
1512年… | 足利政氏が小山成長の小山祇園城へ走り、足利高基(第三代古河公方)が入城。 |
1541年… | 北条氏綱没。北条氏康が家督を継ぐと、山内上杉憲政と扇谷上杉朝定が後北条方の河越城攻めを開始。 |
1545年… | 足利晴氏は両上杉側について河越城攻めに参加したが、翌15年の河越夜戦にて大敗。 |
1552年… | 北条氏康の圧力により、足利晴氏は藤氏を廃嫡、氏康の甥にあたる義氏に家督を譲り、第五代古河公方とした。 |
1554年… | 後北条氏に対抗して、足利晴氏・藤氏父子が籠城。敗れて相模国波田野に幽閉された。和睦後に晴氏は一旦帰城したが再度捕えられ、栗橋城に幽閉。 |
1558年… | 北条氏康の圧力により、古河公方家の重臣簗田晴助は、本拠地である関宿城を足利義氏に進上し、代わりに本城を居城とした。 |
1561年… | 関東に侵攻した上杉謙信は、簗田晴助による足利藤氏の公方擁立を支援。藤氏、関白・近衛前久、上杉憲政が入城。 |
1562年… | 後北条勢が本城を奪回。 |
1569年… | 北条氏康と上杉謙信との和睦成立。足利義氏が入城し、後北条氏の支援のもとに古河公方の地位を確立。 |
1582年… | 足利義氏没。古河公方家断絶。 |
1590年… | 豊臣秀吉が小田原征伐の後に城の破却令を出した。 |
1590年… | 徳川家康に従っていた小笠原秀政が入部し、城を修復・拡張した[15]。なお、秀政は城の修復の間、栗橋城に滞在。 |
1602年… | 松平(戸田)康長が城主となる。康長は観音寺曲輪と百間堀を築き、追手門を設けた。 |
1619年… | 奥平忠昌が城主となる。忠昌は立崎曲輪と諏訪曲輪(長谷曲輪)を拡張したほか、城下でも侍屋敷の拡張、町屋敷の移転を行い、現在の古河市(旧市街)の町割のもとになった。 |
1871年… | 廃藩置県により、古河藩は古河県に改められた。 |
1873年… | 政府の廃城令により、城の取り壊しが決定し、翌年には建造物がすべて破却。 |
1910年… | 渡良瀬川改修開始。大正14 年 (1925年) まで続けられた大改修工事により、城跡もほぼ消滅。 |
立 地
渡良瀬川の河畔にあり、城の位置付けは人と川との関わりに影響されてきた。
渡良瀬川は、上流では主に栃木県・群馬県の県境近辺を流れ、下流では太日川(今の江戸川)と名前を変え、千葉県・埼玉県の県境近辺を利根川と並行して、東京湾に流れ出ていた。
従って、関東を東西に分かつ境界線であると同時に、河川交通により北関東および東京(江戸)・房総を結ぶ物流と交通の幹線であった。
規 模
西を渡良瀬川、東を広大な水堀が囲んでいた。
戦国時代に設備・拡張が繰り返され最終的には江戸時代に土井利勝が本丸に御三階櫓を造営を行った。城郭の規模は南北1800メートル、東西650メートルほどであった。
本丸には御三階櫓・菱櫓などがあったが江戸中期に取り壊され、明治時代に入ると廃城令により建物や門などが取り壊された。
古河公方の本拠地として
足利成氏・鎌倉公方(後の古河公方)享徳の乱において、今川範忠に鎌倉を占拠されると、下総古河に本拠を移した。
古河を本拠に選んだ理由は、前面の利根川や渡良瀬川が上杉氏に対する天然の堀となり守りやすいこと、小山氏や結城氏等、成氏を支持する諸将の根拠地が近いこと、鎌倉公方家の御料所があり経済的な基盤となったことが挙げられる。
成氏は当初、古河の鴻巣にあった古河公方館を居館とし、立崎の古河城を整備した後に移動した。このころ、扇谷上杉家の家宰である太田道灌は、古河城に対抗する前線上に江戸城・岩付城・河越城を築き、拠点とした。
北条家管理の古河城
古河公方は代々およそ130年間引き継がれ、古河は室町後期および戦国時代の関東の中心の一つとなる。
しかし、戦国中期(1558年 - 1570年)には、上杉謙信と北条氏康が公方擁立争いのために本城を奪い合い、その後、後北条氏の関東支配が確定的になると、古河公方も次第にその支配体制の一部に組み込まれ、城も後北条氏の管理下におかれた。
1567年-1592年にかけては、佐竹氏や結城氏らに対抗するため、栗橋城に入った北条氏照のもとで城の整備・拡充が進められ北条氏の古河城管理が本格化する。
北条家滅亡後
1590年、豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼした後には、徳川家康に従って小笠原秀政が入部し、古河城の修復・拡張を行った。
以後、江戸時代には古河藩の藩庁がおかれ、歴代藩主の居城となった。
また、古河公方時代とは逆に、東北方面をにらみ、明治時代に入るまで江戸防衛の一端担いでいた。