概 要
里見家臣。正木通綱の次男。勝浦城主。兄・時茂とともに多くの合戦で戦功を立てる。第二次国府台合戦ののち、正木家の存続を優先して北条家に寝返ったが、のちに帰参した。
ポイント
- 正木通綱の次男で時茂の弟
- 兄・時茂とともに多くの合戦で戦功を立てる
- 正木家の存続を優先して北条家に寝返ったが、のちに帰参する
誕生・死没
- 誕生:1521年
- 死没:1576年
- 享年:56歳
名 前
- 弥九郎(通称)
官 位・役 職
- 官位:大膳亮
所 属
略 歴
1521年 | 0歳 | 正木通綱の三男として誕生 |
1533年 | 12歳 | 父・通綱が里見義豊によって殺害される |
1534年 | 13歳 | 里見義堯に加担し里見義豊を破る |
1541年 | 21歳 | 勝浦城を本拠地とする(勝浦正木家の創立) |
1544年 | 24歳 | 兄・時茂とともに真里谷朝信を攻め滅ぼす 東上総を傘下に治める |
1561年 | 41歳 | 兄・時茂が死没 |
1564年 | 44歳 | 里見家から離反し北条氏に接近 |
1565年 | 45歳 | 北条氏が里見領(上総・下総)に侵攻 正木氏が北条傘下となる |
1574年 | 54歳 | 北条氏から離反し里見家に帰参する |
1576年 | 56歳 | 死 没 |
稲村の変と天文の内訌
☆ 父と兄が北条方に内通した里見実堯と共に主君・里見義豊に討たれる
1513年、相模三浦一族であった正木通綱の三男として誕生する。兄に槍術に長けた正木時茂がいる。
父・通綱は里見一族の里見実堯の重臣として仕えていたが1533年、実堯が北条方に内通した疑いをかけられ、主家である里見義豊に攻め滅ぼされた。その際に実堯の側近であった父と長兄(弥次郎)もこの戦で戦死した。(稲村の変)
そのため、正木氏の家督は兄・時茂が継ぐこととなった。
里見義豊討伐
★ 兄・時茂とともに実堯の嫡男・義堯の寄騎として里見義豊討伐に参陣する
1534年、里見義豊に殺された、実堯の遺児であった義堯が北条氏の支援を受けて挙兵し義豊を攻撃した。時忠も時茂と共にこれに従い上総金谷城において挙兵して里見義豊を殺害した。(犬掛の戦い)
この戦いに勝利した義堯は安房本国に入国し里見家を相続、正木家は義堯が居城としていた上総国金谷城に入城した。
勝浦正木家
★ 「勝浦正木家」を興し、上総に侵攻する
兄・時茂が上総武田氏の内紛への介入を義堯から命じられると、時忠もこれに従い、1542年に上総の要衝の一つである勝浦城を本拠地とする勝浦正木氏を興し、1544年に真里谷朝信を討ち取るなど、東上総をその傘下に収めた。
★ 領土拡大
正木家が上総を支配すると時忠は、興津・吉宇などの海岸地域郷村を支配下に置き、朝信から奪った大多喜城に入った時茂(大多喜正木氏)を補佐することになった。
その後、東上総の軍権を時茂から任されると武田氏の残党や下総千葉氏など近隣の勢力と戦ったり、上総に海を越えて勢力を伸ばそうとする相模北条氏と争い、いずれも功を挙げたという。
北条氏への寝返り
★ 兄・時茂が死没し、正木家の実力者となった時忠は里見家から独立するようになった
1561年、兄・時茂が死没すると次第に大多喜正木氏が弱体化し、代わって時忠(勝浦正木家)が権力を持つようになった。
やがて時忠は里見氏からの自立を志向するようになり、1564年の第二次国府台合戦の直前に里見氏から離反し北条氏康に接近した。
翌年には北条氏政が里見領に侵攻すると、時忠は北条氏政の軍へ参陣、北条氏の傘下の勢力として里見氏と争った。
★ 里見家へ帰参
北条、今川、武田の三国同盟が決裂し、駿河国を巡って北条と武田が抗争すると、思うような支援が得られなくなった正木家は次第に北条氏との関係が悪化していった。そのため、時忠は1570年ごろには里見家へ帰参し、1574年には北条領国の上総国大坪に侵攻し、その2年後の1576年に死没している。享年56歳であった。
逸話・人物
★ 外房最大の海賊集団
時忠は勝浦を中心とした外房(太平洋側)の海賊集団を掌握し、水軍組織の編成を行うなど里見水軍の有力な武将であったと推定される。勝浦が大船の出入りする要津であったことから、時忠の漁船・水夫の動員が可能になったといえる。
★ 特徴的な花押
時忠の花押は左下を墨で塗りつぶさず、白抜きになった小さい丸の点を使用した特徴的な花押を使用している