蘆名家中興の祖として伊達家と並ぶ大名に築きあげた

蘆名 盛氏あしな もりうじ

蘆名盛氏 肖像画

蘆名盛氏 肖像画

概 要

蘆名家16代当主。蘆名盛舜の子。蘆名家中興の祖として同盟を利用して蘆名家を伊達家に並ぶ大大名に築き上げた。その勢力は会津一円から北越後まで及んだ

  ポイント

  • 蘆名家16代当主
  • 蘆名家の全盛期を築き上げる
  • 隠居後は止々斎と号す
  • 盛氏の死没後、蘆名家は衰退し始める

誕生・死没

  • 誕生:1521年
  • 死没:1580年
  • 享年:60歳

名 前

  • 四郎丸(幼名)
  • 平四郎(別名)
  • 止々斎(号)

官職・役職

  • 官位:従四位下、修理大夫

同い年の人物

  • 陶晴賢、武田信玄、犬童頼安 、芳賀高定、芳賀高照、松平忠次 、 松平康親 、六角義賢 、弘中隆包 、 正木時忠 、最上義守 、菅沼定氏

親 族

蘆名盛舜
金上盛興の娘
正室 伊達稙宗の娘
兄弟 氏方(遊女の子)、盛氏二階堂(蘆名)盛隆(養子)
白河義親の室(養子・妹)
盛興 、結城義親の正室
養子 盛隆(養子・二階堂盛義の子)

略 歴

1521年 0歳 蘆名盛舜の子として生まれる
1537年 16歳 伊達稙宗の娘を正室に迎る
1541年 20歳 父・盛舜より家督を譲られる
1542年 21歳 山内氏を討って会津における勢力を拡大する。
天分の乱が勃発し、伊達稙宗側に付く
1547年 26歳 伊達稙宗側(味方)の田村氏と中通にて対立したため、晴宗側に転じる
1550年 30歳 中通りの進出を開始
佐竹氏と対立したため、北条家や武田家と同盟を結ぶ
1561年 41歳 庶兄・氏方の謀反を鎮圧する
隠居し家督を嫡男・盛興に譲る(家中の実権は握ったままだった)。剃髪して止々斎と名乗る
1563年 43歳 二階堂盛義と戦い岩瀬郡へと進行する。(伊達家が妨害する)
二本松家が人質(盛隆)を差し出し蘆名家に降伏、同時に伊達家とも和議が成立する。
1574年 54歳 伊達実元と共に田村氏傘下の二本松・大内家を破り、田村家を従属させる
盛興が急死し、二階堂盛義の子・盛隆が家督を継ぐ、盛氏は後見人となる
1575年 55歳 結城義親を支援して白河結城氏の家督相続問題に介入する
上杉謙信死後の越後に出兵する
1580年 60歳 死 亡

出 生と家督相続

蘆名家15当主・蘆名盛舜の子として誕生する

1521年、蘆名家代15代当主・蘆名盛舜の子として生まれる。 伊達家との同盟のため、伊達稙宗の娘を正室に向かえ、21歳の時に父・盛舜から家督を譲られた。

天分の乱

義父・稙宗方に付くが田村家と対立し晴宗方につく

1542年伊達家で「天分の乱」が勃発すると、初めは義父でる伊達稙宗に味方するが、1547年、味方である田村家と対立し、晴宗側に味方するようになる。これは、会津を手中い収めた盛氏が勢力拡大のため、田村領地の中通り地方への進出を行ったからだと言われている。 このため晴宗側が優位になり天文の乱は晴宗方の勝利に終わった。

国内安定と隠居

盛氏は内政強化として国内の金山開発に力を入れたり、流通支配の強化を図った。
1561年に、庶兄・氏方が家臣の支持を受けて謀叛を起こす。これはすばやく鎮圧するが。盛氏は家内の安定を図るため、父にならい家督を嫡男・盛興に譲り向羽黒山城(大沼郡岩崎城)を築きここに隠居し、剃髪して止々斎と号した。しかし隠居後も政治・軍事の実権を掌握し、引き続き家中の統制にあたった。

参考資料(引用元)