南部氏一族と伝えられている
「九戸の乱」で破れ斬首される

久慈 直治くじ なおはる

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ー写真無しー

  ポイント

  • 南部氏一族と言われている
  • 九戸家と婚籍関係が深い
  • 九戸の乱に加担し斬首される

誕生・死没

  • 誕生:不 明年
  • 死没:1591年
  • 享年:不明

名 前

  • -特に無し-

所 属

官職・役職

  • 不 明

親 族

  • 子 : 久慈政則

略 歴

1591年…九戸の乱で破れ斬首される

久慈氏の出自

久慈氏の出生には2説ある、以前久慈にあった氏で「陸奧安倍氏族」の系譜を引くものと、南部光行の三男を祖とする系譜や、一戸南部氏の分流などの陸奧「清和源氏、南部氏族」がある。

「清和源氏、南部氏族」の久慈氏は、近世の系譜類では南部氏の祖・源光行(南部光行)の三男で七戸氏の祖になった七戸朝清の流れとするが、異説もある。(系胤諸考所載「摂待系図」『奥南旧指録』など)

「摂待久慈系譜」の序文によると、久慈氏の始祖は南部三郎光行の弟で、小笠原四郎源光清で建久2年(1191年)12月、兄光行と共に奥州に下向、九戸郡久慈を分領して、累代南部氏の従臣となったとある。

九戸氏との関係と「九戸の乱」

久慈直治は九戸信仲の三男中務政則を娘婿としたため、九戸とは婚籍関係にあったと言われている。
そのため1591年9月に起きた九戸政実の乱において九戸政実に荷担したが敗北し、主だった首謀者達とともに栗原郡三迫岩ヶ崎(現 宮城県栗原市)に送られ処刑され、久慈氏の本宗は断絶した。久慈一党の多くは、九戸籠城軍に加わり九戸氏とともに滅んだ。

久慈直治の弟 閉伊郡宮古摂待村領主・出羽治光は、病を理由に九戸家にくみせず没落を免れて、久慈出羽守と称して摂待久慈家として残る。久慈修理治興、久慈(毘)但馬高光なども、在命したことが知られている。