ポイント
- 桑折宗長の子として生まれ原田家へ養子に入る
- 関が原合戦の際に相馬家を説き伏せ伊達家の相馬領通過を成し遂げる
- 大阪夏の陣で活躍し船岡城主となる
誕生・死没
- 誕生:1538年
- 死没:1606年
名 前
- 弁慶(幼名)、左馬助(通称)、甲斐(通称)
所 属
略 歴
1582年 | 0歳 | 桑折宗長の次男として生まれる |
1593年 | 11歳 | 原田宗時が死没したため原田家に養子に入る |
1600年 | 18歳 | 関が原の戦い 相馬家を説得し伊達軍の領内通過の許可を得ることに成功する |
1606年 | 24歳 | 五郎八姫(政宗の娘)と松平忠輝との婚礼の際には、貝桶渡しの役を務める |
1615年 | 34歳 | 大阪夏の陣で戦功を挙げ柴田郡船岡城主となる |
1623年 | 42歳 | 死 没 |
概 要
桑折宗長の子。原田宗時の死後、政宗の命で原田家の後を継ぐ。関が原合戦では宿敵「相馬家」を説得し伊達軍の領国通過を認めさせた。大阪夏の陣で戦功をあげ船岡城主となった。
誕生と原田家相続
1582年、伊達氏の重臣・桑折宗長の次男として誕生する。
1593年、文禄の役に従軍していた従兄・原田宗時が対馬にて病死すると、宗資は主君・伊達政宗の命令で原田氏を継いで牡鹿郡大瓜領主となった。
ちなみに1595年に起きた秀次事件に際しては、在京の重臣19人による連判状には父・宗長と共に署名している。
相馬家の交渉役として活躍
1600年、政宗は徳川家康の命令により上杉景勝討伐に参加するため、5年ぶりに領国への帰還を許された。
しかし、政宗一行が上杉領を通らずに帰国するためには、相馬領を通過する必要が有ったが、相馬氏とは郡山合戦(伊達VS佐竹・相馬・蘆名連合)以来対立しており、相馬家中にはこの機を逃さず政宗を殺すべきという意見も多く、無事に本国へ帰還することは不可能であった。そのため相馬家との交渉が必要であった。
政宗は宗資に相馬家との交渉役を任命した。宗資は相馬氏重臣・水谷胤重と会談して家中の説得を依頼し、その結果、相馬義胤から領内通過の許可を得ることに成功、伊達軍は無事に本国に帰還することができた。
伊達家での活躍
その後も宗資は伊達家の重臣として活躍、1606年には、政宗の長女・五郎八姫と松平忠輝との婚礼の際には、貝桶渡しの役(嫁入り道貝の貝桶を、嫁側から嫁入り先に受け渡しする役)を務めた。
さらに1615年、大坂夏の陣では多くの首級を挙げ、その軍功により4,000石に加増されて柴田郡船岡城主となった。
しかし、1623年6月14日、仙台にて病死した享年42歳であった。
この後、嫡子・雅楽(後の宗輔)5歳が家跡相続を命じられる。この宗輔が伊達騒動で有名な原田甲斐である。