才気に富み各地の戦いで戦功をあげた勇武の士

原田 宗時はらだ むねとき

原田城址

居城・原田城址

  ポイント

  • 伊達家臣・山嶺安長の子として誕生した後、原田家に養子に入る
  • 武勇・才気ともに優れ各地の戦いで数々の戦功をあげる
  • 朝鮮出兵の際に釜山にて風土病を患い対馬にて死去

誕生・死没

  • 誕生:1565年
  • 死没:1593年
  • 享年:29歳

名 前

  • 虎駒(幼名)、左馬之助(通称)

所 属

親 族

山嶺安長(源市郎)
養父 原田宗政
養子 原田宗資(桑折宗長の次男)

略 歴


1565年 0歳  山嶺安長(源市郎)の子として誕生
1582年 17歳  叔父の原田宗政が戦死したため、原田家の養子に入る
原田宗時となのる
1583年 18歳  原田城城主を継ぐ
1589年 24歳  摺上原の戦いに参陣して武功を挙げる
1591年 25歳  政宗の移封に従い原田城を離れる
1592年 28歳  朝鮮出兵に従軍する
1593年 29歳  風土病を患い死没する

概 要

18歳で原田城主となり各地で功を立てた剛勇の士。輝宗やその子・政宗の厚い信頼を受けた。豊臣秀吉の朝鮮派兵に従軍中、病死した。伊達騒動の主人公・原田甲斐宗輔は孫にあたる。

原田家

原田氏の祖は伊達氏初代・朝宗に仕え以降、代々伊達氏の宿老を務めた。

誕生と原田家相続

1565年、陸奥・出羽の戦国大名・伊達氏の家臣である山嶺安長(源市郎)の子として誕生した。

1582年4月相馬表の戦いにて叔父の原田宗政が戦死し、宗政に嗣子がいなかったため、伊達輝宗の命により、虎駒が原田家の嗣子となることを命ぜられ、御字を賜って宗時と称し、左馬之助と名付けられ、原田家第17代当主となった。
その後、1583年にはわずか18歳にして原田城(現:山形県川西町上小松)城主を継いだ。

伊達家での活躍

剛直な性格にして勇武の士であったといわれ、才気に富み、各所の戦いにおいて顕著な戦功をあげ、輝宗や政宗から厚い信頼を受けた。

なかでも1589年の「摺上原の戦い」にでは本陣とは別働隊として参戦し蘆名家を撤退させるほどの戦功を挙げた。
その後1591年、伊達氏が米沢を召し上げられ、岩出山に移封となると、宗時も原田城から離れ政宗に従った。

宗時の失態

1585年、蘆名家の会津侵攻を続ける政宗は、なにかいい策はないかと模索していた。そこで原田宗時が家臣・平田太郎左衛門に蘆名家内で内応者を作らせる策を提案しこれが採用された。
平田太郎左衛門はなんなりと計略を成功させため、伊達家は会津へと進軍した。(関柴合戦)

しかし、関柴へ兵を進めて館に火をかけたところ、事態を察知した蘆名方の将が急襲を仕掛けたため原田隊は大混乱の内に敗走してしまう。
※平田が裏切って蘆名へ陣立てを知らせたためとも言われる。
さらには宗時自身も攻め寄る敵の旗を味方と誤認する大失態を犯し、全く先陣の体を成さず敗戦の決定的要因となってしまった。

この時の伊達勢は山道を彷徨って餓死する者、具足を脱ぎ捨て一目散に逃げ出す者と散々な有様であったという。 また蘆名方から内応した松本備中輔弘は孤立無援に陥り討ち取られ、その父・長門輔充は齢90の老翁ながら裏切り者の父として捕らえられ、黒川城下にて無惨にも串刺し刑となって殺された。

朝鮮出兵

1592年、秀吉による朝鮮出兵が行われると、宗時も政宗に従って出兵する。
しかし、1593年に釜山にて風土病を患うと、病が重くなり釜山浦近くの島に滞留して対馬国まで戻ったが、そこで病死した(釜山浦で死去したともいう)。享年29歳であった。

政宗は幼い頃からの近臣であった原田宗時のあまりにも早すぎる訃報を知り、嘆き悲しみ、友に和歌六首(国風六首)を贈った。

・夏衣きつつなれにしみなれども別るる秋の程ぞ物うき
・虫の音も涙催す夕ま暮淋しき床の起臥はうし
・哀れげに思うにつれぬ世の習い馴れにし夢の別れをぞする
・みるからに猶哀れそう筆の跡今より後の形見ならまし
・誰とてもついには行かん道なれど先立つ人の身ぞ哀れなる
・吹き払う嵐にもろき萩の花誰しも今や猶まさるらん
上から順に頭の一文字を取ると「なむあみだぶ」となる洒落れた詩だった。

その後の原田家

死後、宗時には嗣子がいなかったので、政宗の命により、桑折宗長の末子、後の原田宗資が家督を継いだ。

逸 話

 後藤信康

伊達家臣に後藤信康という人物がいた。
信康は関柴合戦(伊達VS蘆名)での宗時の行動に対して非難をします。これに対し腹を立たてた宗時は信康に対して決闘を申し込みます。
これに対して信康は「このような事で死ぬくらいなら、御家のためにその命を使おうではないか」と諭した。これに感心した宗時は改心して、信康の義勇の大きさに敬服して、以後二人は固い友情で結ばれたという。

 伊達者

朝鮮出兵に参陣した伊達軍は、とても派手な格好をしていて評判になり、京の町では派手好きな人を「伊達者」というようになった。
中でも宗時は、親友の後藤信康と二人で駿馬にまたがり、地面につきそうなくらい長刀(約2.7メートル)に、金の鎖をつけて肩から提げ、「さすがは伊達者」と人々を驚かせ、人々はみな彼の威を讃えたという。

参考資料(引用元)

戦国1000人

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