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伊達家家臣として軍政両面で多大な功績を残した
桑折 宗長
ポイント
- 桑折貞長の嫡男
- 初めは出家するが、のち還俗して家督を継ぐ
- 伊達家家臣として軍政両面で多大な功績を残した
誕生・死没
- 誕生:1532年
- 死没:1601年
- 享年:70歳
同年代の人物
名 前
- 点了斎不曲
所 属
官職・役職
- 官位:不 明
親 族
略 歴
1532年 | 1歳 | 桑折景長(貞長)の長男として生まれた 父・景長が伊達稙宗の子を嫡子としたため出家する。 |
1543年 | 12歳 | 義兄・宗貞が死去したため還俗(桑折家に復活)し家督を継ぐ | 1593年 | 62歳 | 嫡男・政長が病死 | 1594年 | 63歳 | 石母田景頼の長男・万六を養嗣子とし、家督を相続させる | 1601年 | 70歳 | 死 没 |
概 要
伊達家臣。父・景長が伊達稙宗の子を嫡子としたため出家するが、のち還俗して家督を継ぐ。輝宗、政宗の二代に重用され、軍政両面で多大な功績を残した。
誕生と家督相続
宗長は1532年当初、伊達氏の家臣桑折景長(貞長)の長男として生まれた。
宗長は長男だったが、父は伊達稙宗の6男四郎(宗貞)を嗣子として迎えたため、弟・彦十郎(飯田宗親)と共に相模国藤沢の遊行寺で出家し、覚阿弥と称した。
しかし、宗貞(養兄)が松鶴(宗長)との戯れによる小刀の負傷がもとで17歳で早世したため、宗長は父の命令で呼び戻されて還俗し、播磨守宗長(後に摂津守)と称し桑折家を継いだと。
伊達家での活躍
伊達輝宗の隠居後は伊達政宗に仕え、政宗時代の伊達家のほとんどの合戦に参加し、戦功をあげてた。その後老齢のため、嫡男の政長に家督を譲ったが、点了斎不曲と号して、以後も評定衆として政宗の補佐を務めた。
跡 目
1593年、嫡男・政長が「文禄の役」に出陣してるさなか、朝鮮釜山浦で病死。
政長の子が娘の吉菊だけだったため、1594年正月、政宗の命により宗長の甥で婿である石母田景頼の長男・重長が養嗣子(婿)となり、家督を相続した。
だが、まもなく重長も亡くなり、嫡子・定長も幼かったため、政宗の命により石母田景頼の4男宗頼が継ぐこととなり、石母田景頼は後見を命ぜられ桑折景頼と改称し桑折家の継承者となった。
死亡説
宗長は1601年7月に死去した。享年70歳であった。
しかし、『石母田家文書』には1608年の宗長署名にて知行宛状が存在し、御日記には1614年卒と記載されており、多くの文書で言われる慶長6年7月死去説は誤りであるとしている。