最上氏第10第当主であり、伊達家からの独立を果たした戦国大名

最上義守もがみよしもり

龍門寺

最上義守の菩提寺(龍門寺)

画像引用: 日本史專欄 様

  ポイント

  • 2歳の若さで最上家の当主に仕立てられた
  • 伊達氏から独立し勢力を拡大した
  • 嫡男・義光との親子ケンカに破れ隠居する

誕生・死没

  • 誕生:1521年
  • 死没:1590年
  • 享年:79歳

名 前

  • 幼名:長松丸
  • 出家後:栄林

官職・役職

  • 羽州探題
  • 従四位上・修理大夫
  • 出羽守
中野義清(実父)、最上義定(義父)
正 室 蓮心院(小野氏の娘)
兄弟 中野義政、義守
最上義光中野義時?、長瀞義保(中野義時と同一人物?)
   楯岡光直、鮎貝忠旨(宗信)室、厳松院

略 歴

1521年…中野城主・中野義清の次男として生まれる
1522年…伊達植宗の策略により中野氏から2歳の義守が当主として招き入れられる(伊達家の傘下に降る)
1535年…天童氏により焼き討ちされた、立石寺を再建させるなど、領内の復興に努める
1542年…伊達家のお家騒動(天分の乱)が発生すると、稙宗の味方に付き長谷堂城を奪還し、伊達氏からの独立を図る
1546年…嫡男・義光が生まれる
1560年…寒河江城の寒河江氏を攻めるが、撃退する。
足利将軍に使者を送り嫡男義光に足利義輝の「義」の字を拝領する
1564年…伊達氏に娘の「義姫」を嫁がせる
1570年…義光との間で家督争いが勃発するが、重臣である氏家定直の仲介により和解し、家督を義光に譲り、自身は隠居する
1571年…出家し名を「栄林」と名乗る
1574年…伊達氏からの独立傾向が強めていた義光と保守的な義守の関係が再度悪化すると、義守救助の名目で伊達軍が最上領内に進出する(天正最上の乱)義光有利の条件で和睦が成立する。(龍門寺で完全に隠居する)
1590年…義守死去

2歳での家督相続

義守が誕生する1年前、1520年、当時の最上家第9代当主であり、義守の大祖父の最上義定が嫡子が居ないまま死去すると、義定の義兄で・伊達稙宗は最上家を完全な操り人形にしようと企てた。これに最上領内の国人は伊達氏に対して次第に抵抗するようになり、上山城主の上山義房が反乱を起こすと、周囲の国人(天童、寒河江、成沢)達もこれに加担していった。最上領内に進軍する口実を得た稙宗はこれらを攻め滅ぼし、再び傘下に加えた。稙宗は当初最上家に養子を出し傀儡化を企ていたが、国人達の反対にあい、再び反乱が起こるのを恐れ養子を出す事を諦め、最上氏の一門中野氏から当時2歳だった義守が当主として迎え入れられた。

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